角砂糖が溶けるように

3-4 言葉の意味

 平太郎から預かっていた鍵を使い、麻奈美と芝原は裏口から大夢に入った。麻奈美は最初、住居部分のテーブルに案内したが、芝原は店内のほうが落ち着くからそっちがいい、と言った。

「本当に、何もないですよ……ちょっと待っててください」
 店側の飲食物はすべて平太郎が管理していたので、麻奈美は住居部分の冷蔵庫を覗いた。つい先日も覗いたので中身は把握したいたが、改めて見ると、本当に、老人の一人暮らしに必要なものしか入っていない。

「芝原さんいつもコーヒーですけど、お茶、飲みますか?」
「ん? ああ、ありがとう。家では飲んでるよ」
 いつもの一番奥の指定席で待つ芝原に麻奈美は麦茶を出した。もちろん彼には客用の綺麗なグラスを使い、自分はここに置いているお気に入りのキャラクターのを選んだ。

「麻奈美ちゃん、そのキャラクター好き?」
 芝原は麻奈美が持つグラスを見つめていた。
「はい。小さいときから大好きなんです。この耳、大きくて可愛いですよね。苛められる原因になってましたけど……」
「確か、周りに助けられて飛べることを知るんだっけ? 懐かしいなぁ。まさか象が飛ぶって、思わなかったな」
「ははは。ですよね」

「僕も、飛んでみたいな。もっと大人にならないと」
「え? 芝原さんって、もう……大人だと思いますけど」
「──年齢だけね。僕なんかが大人だったら、世の中どうにもならないよ」
 自嘲気味に笑い、芝原はため息をついた。
 出会った当初はあまり良い印象を受けなかったが、すぐにそれは間違いと気付いた。落ち着きがあって頼りになる、好青年としか映らなくなった。
 けれど、平太郎と浅岡が彼の何かを隠していることに最近気がついた。芝原が言っているのは、そのことに関係あるのだろうか。

「怖くない?」
「何がですか?」
「僕のこと」
 言葉の意味が理解できず、麻奈美は返す言葉がわからなかった。
「僕が一体何者なのか……素性を知らないって、怖くない?」
「素性、ですか……」

 麻奈美が芝原について知っているのは、幼稚園からずっと星城に通っていて高校三年の時の担任は平太郎、現在は歴史の勉強をしている。家庭教師の浅岡が彼の同級生。それだけだ。
「確かに、学校のことしか知らないですけど……怖くはないです。怖いと、思えないんです。おじいちゃんも浅岡先生も、何か隠してますけど……」

 そんなことを言いながら、麻奈美は気がついた。平太郎と浅岡が麻奈美に決して言おうとしないことは、きっと芝原の素性に違いない。
「前におじいちゃんが言ってたんです。芝原さんを助けてやって欲しい、って」
「──マスターが、そんなことを?」
「はい。意味は、わかりません。でも……だから余計、芝原さんのことは信頼できるんです。怖くなんかないです」
 最後は笑顔で麻奈美は言った。
 芝原の過去に何があったのか、麻奈美はまだ知らない。けれど彼は麻奈美にとっては理想の大人にしか見えなかったし、第一、平太郎が芝原を大切にしていた。
「そう……。それなら、良かった」

 本当に安心したような顔をする芝原を、麻奈美はかわいいと思った。彼のほうが麻奈美よりも五歳年上なのに、そんな風には見えなかった。サイドボードに飾ってあった写真の彼はやんちゃな青年に見えたけれど──こんなに優しい芝原が、怖いわけがない。

「そうだ、ごめんね急に呼び出して。用事はなかった?」
「はい。大丈夫です」
「実は……麻奈美ちゃんにお願いがあるんだ」
「お願い? 何ですか?」
 クエスチョンマークを浮かべる麻奈美に芝原は向き直った。

「──マスターが入院してる間、ここを開けてもらえないかな」
「ここ? お店をですか?」
「営業してほしいとは言わない。ただ……場所を、貸してほしい」

 麻奈美は何も言わなかった。黙って、芝原が言ったことの意味を考えていた。考えながら、昨日のチヨの言葉を思い出した。芝原はどこで勉強するのだろう、と言っていた。
「勉強する場所……ですか?」
「大学に長く残ってると教授に用事頼まれて、家じゃ、落ち着いて出来ないんだ。さっきの図書館は勉強禁止してるし……他に当てがなくて。もちろん、毎日とは言わない。麻奈美ちゃんの都合のつく時間だけで良い」

「……わかりました。開けます」
「本当に?」
 嬉しそうに微笑む芝原に、麻奈美も頬が緩んだ。
「私も、悩んでたんです。掃除は頼まれてたけど、それしか来ないのも寂しくて、でも一人でずっとここにいるのも寂しいし。良かったです。ありがとうございます」
「いや、お礼を言うのは僕の方だよ」
「そうですね。なんか変ですね」

 それからしばらく二人で笑って、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
 芝原にはずっと前から好きな人がいることを、麻奈美はしばらくの間、忘れていた。
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