角砂糖が溶けるように

5-5 途切れた記憶

 記憶は、ほんとうに途切れてしまっている。
 校長と話して帰ってから──しばらくぼんやりしていた。麻奈美からの伝言は確かに聞いていたが、店に行く気にはなれなかった。
 教育実習の二日目、星城高校に行くと、やはり、生徒の数が異様に少なかった。もともと早くに着いていたので少ない時間帯ではあるが、それにしてもあまりに様子が違っていた。自分が通っていた頃とも、全く違うものだった。
 校長にはすぐに呼び出され、保護者が抗議の電話をしてきた、と聞いた。
 こうなることを予想はしていた。平太郎にも何度も言われていた。自分が強くならないとこれを乗り越えることは出来ない──わかっているつもりだった。
 けれど、芝原は何も強くなれていなかった。
『多少は助けてやるがどうすることも出来ない。この学園に子供を入れる保護者の多くは躾《しつけ》の厳しさを当てにしている。自分で解決策を探しなさい』
 校長にそう言われ、まっすぐ実習生控室には戻れなかった。
 自分が担当することになったクラスまで足を運び、誰もいない教室を見渡した。
(本当に、教師になるのか──なれるのか?)
 不安なことしか浮かんでこなかった。
 教師になってからも、やっていける自信はなかった。
(やっぱり、僕は教師には向いてないのか──させてくれないのか?)
 教室から出てドアを閉め、ぼんやり校庭を見下ろした。
 テニスコートや守衛室のあるこの場所で、もちろん体育の授業も受けたが、バイクで走ってそのまま逃げ、学園の外で事故を起こした。忘れてはいけない、忌まわしい記憶だ。
 視界の隅の方で何かが動いた。
 玄関から走って出てくる女子生徒が二人──麻奈美とその友人だった。
 麻奈美は友人を追って走り、笑っているように見えた。
(僕は、大夢に行っていいのか……?)
 麻奈美はそうすることを望んでいる。
 いつもと違うもの──おそらく、麻奈美がコーヒーを淹れてくれるつもりなのだろう。それは嬉しかった、けれど、足は店へは向かわなかった。家に帰って荷物を置き、スーツを着たまま冷蔵庫を開けた。普段でもほとんど飲まない缶ビールのプルトップを思いっきり上げると、一気に飲み干した。
 それからどうしたんだろうか──。
 缶ビール一本でそこまで酔ったことはない。芝原は薄れた記憶を手繰った──翌朝、家に帰ってから、テーブルの上に空き缶が散乱しているのを見たのは覚えている。
 飲みながら、確か、ずっと悩んでいた。
 本当に教師になるつもりなのか?
 教師になって、何を教えられる?
 教えたところで、生徒たちはついてきてくれるのか?
 保護者からの理解は得られるのか?
 そんなことが堂々巡りで、全く前には進まなかった。
 前へ進み、強くなり──
『強くならないと、どうなっても知らんぞ』
 平太郎の言葉を思い出し、思わず缶を握りしめた。カシャカシャと力ない音をたてて、アルミ缶は大きく凹んだ。
「わかってんだよ、それは──でも、どうしろって──」
 そう言って床に寝転んだところまで思い出すと、次は目の前に麻奈美の姿があった。店の外の電気を消し、ドアの鍵をかけた。
(はっ、そうだ、店に行ったんだ。確か、夜遅くて、麻奈美ちゃんは寝てて──)
 芝原は、ようやく全ての記憶を取り戻した。
 いつもならすでに閉っているはずの時間なのに、大夢はまだ『営業中』の札を提げていた。もちろん、客の気配はまったくなく、店内では麻奈美がひとり、カウンターにうつ伏せになって眠っていた。
 芝原は店には到着していたが、まだ気分は良くなっていなかった。ビールの酔いが回りすぎて、思考ははっきりしなかった。むしろ、何も考えたくなかった。それでもせめて目の前で眠る麻奈美が風邪ひかないようにと、自分が着ていた上着を掛けた。足元にペンが転がっているのが見えたので、拾って置いた。
 そして、麻奈美が残したコーヒーを飲んだことも思い出した。
(酔ってたとはいえ、やりすぎだな)
 飲み干してから、麻奈美に愚痴をこぼした。
 そこまで弱かったのか、と自分でも思う。
 今まで散々、世話になっておきながら、また弱音を吐いたのか。
 芝原の気弱な発言に、麻奈美は涙を流していた。今まで麻奈美は、芝原が頑張っている姿をずっと見てきた。それを無駄にするなと訴えていた。
 それから──。
 麻奈美を抱きしめたことも、逃げようとした麻奈美を引き戻したことも思い出した。
 芝原に好きな人がいると知っている麻奈美には、辛かっただろう。
(ほんとに、何やってんだ僕……)
 あのときは、ただ温もりが欲しかった。
 誰かに触れていたかった。
 近くにいた麻奈美に、つい手を出してしまっていた。
(マスターに、嘘ついちゃったな……)
 もちろん、自分が麻奈美に言ったこともちゃんと思い出した。
『同級生だったら、絶対惚れる』
 あの言葉に嘘はない。
 けれど、軽薄だったとは思う。
 ようやく腕の力を緩めると、麻奈美は言った。
「芝原さん、明日、学校に来てくれますか?」
「僕が行っても、どうなるかわからないよ。また今日みたいに」
「良いんです。ちゃんと、来てくれたら」
 さっきとは逆に、今度は麻奈美が芝原のシャツの両方の袖を握っていた。
 麻奈美に掛けた上着は、そのまま椅子にかけてある。
「どうして、そんなに僕のこと」
 受け入れられないと思っていた。
 いくら平太郎の孫でも、そこまで上手くいくとは思っていなかった。
「大切だから──芝原さんが、好きだからです」
「え──、僕は──」
「わかってます。芝原さんには好きな人がいるって、でも、もう……」
 麻奈美は俯き、握ったままの芝原の腕に顔を埋めた。
 芝原にはどうすることも出来なかった。
 時計の針はもう十時を回っていて、店の外も真っ暗だった。麻奈美はそのまま眠ってしまったので、とりあえず平太郎の隣に寝かせ、目についた目覚ましを登校二時間前にセットした。店の鍵もかかっているので、芝原もそこで夜を明かした。
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