角砂糖が溶けるように

8-4 相談室での会話

 日付はずいぶんと遡ることになる。
 僕が彼女に気持ちを打ち明けるよりもっと前──星城の教師になって間もない、各クラスでテストをしていた頃。僕が生徒だった頃に二年間担任をしていた先生に、職員室の奥の相談室に呼ばれた。
「君とここで話すのは、久しぶりだな」
「そうですね……ご迷惑おかけしました」
 悪いことをした時は、いつもあの部屋で説教されていた。実習の時も、別件であの部屋を使った。僕にとって、馴染み深い部屋だ。
「本当にな。まぁ、それが今は、教師としてここにいる。立派じゃないか」
「いえ。ありがとうございます」
「それで、話なんだが──本当のことが聞きたいそうだ」
 先生は立ち上がり、ドアのほうへ歩いて行って誰かを呼んだ。僕に使うような砕けた言葉ではなく、目上の人への敬語だった。
 そして姿を見せた人物に──僕は、しばらく言葉が出なかった。
「何をそんなに驚いてるんだ、みっともない」
「あの──、どう、して、ここに……」
「先生から聞かなかったのか? 君に本当のことが聞きたくて来たんだが」
 まだ僕が状況を掴む前に、先生は相談室から出て行った。
 残された僕は、ただ立っているしか出来なかった。
「私は座るよ、君も、座ったらどうだ」
 彼が──僕の高校生活最後の担任が座ってから、僕もようやく腰を下ろした。
「ときどき、現役の先生から相談の電話がかかって来るんだが……今日は、あの先生からでね。もともとの要件が済んでから、気になることを言っていた」
 僕は何も言えなかった。
 平太郎から向けられた視線が妙に突き刺さり、まっすぐ顔を見ることは出来なかった。
「どうしたんだ、元気がないな。また怒られると思ったのか?」
「いえ、そんなわけでは……その、先生の言っていたことと僕と、何か関係あるんですか? 先生は出て行きましたけど」
「先生は──君の話をしていた」
「僕の話、ですか?」
 久々に元担任同士で話をして昔話をしたのだろうか、と一瞬思った。けれど、昔のことはすべて解決しているし、今さら改めて問われることもない。
 平太郎と先生の間にも、元担任という共通点しかない。僕に関する話題は、過去のこと以外に浮かばない。
「君は、本当に真面目に生きてきた。褒めてやる」
「え? ありがとうございます……」
「嘘をついたことも、一度もなかったな」
「はい。あの時は嘘だらけでしたけど、卒業してからは全く」
 さっきまで重苦しかった空気が少しだけ軽くなった。
 そんな気がしたのは、ほんの一瞬だけだった。
「だが、同時に君は、本当のことを隠し続けていた。店を開ける前、君は言ったな──麻奈美に恩返しがしたい、と。できたのか?」
「はい。麻奈美ちゃんには、出来る限りのことを──」
「それは嘘だな。君はまだ、本当の恩返しは出来ていない」
 平太郎の言葉に冷たいものを感じた。
「君はこうも言っていた──自分のことを知ってもらいたい、ってね」
「それは、もう」
「確かに、麻奈美は君の過去を知って、受け入れたようだ。だけどね──君が麻奈美と話してるのを見てるうちに、一つの可能性が浮かんだんだ」
「何、ですか?」
 平太郎が何を言おうとしているのか、なんとなくは気付いていた。自分が言ったことは覚えているし、話しているうちに、先生が何を電話で話したのかも、見当がついた。
「私はいつも、君に厳しくしてきた。どうしてだと思う?」
「僕が──麻奈美ちゃんの悪い虫になるんじゃないかって、心配だったんじゃないですか? いつも目くじら立てて、怖かったですよ」
「君は高校時代、私が話す麻奈美に興味を持って、会ってみたいと思うようになった。その後、私が店を開くことになって、偶然、働いていた麻奈美に出会った」
 平太郎は一旦言葉を切り、僕は降参の意味で両手を上げた。
「そして──運が良かったのか、麻奈美も君に興味を持った。それからのことは言うまでもないか……」
「マスターには、隠し事は出来ないですね」
「あたり前だ。それに麻奈美は、たった一人の孫だからな。まぁ、君と麻奈美のことは、私は反対しない。母親も心配ないだろうし……問題は、父親だな。あれは私以上にヤキモチ焼きだからな」
「ああ──でも、僕はまだ、麻奈美ちゃんとは何も」
「君はずっと前から、高校の頃から好きな人がいると言った」
「はい」
「それは、うちの麻奈美だった」
「……はい」
 僕が職員室前で三年生の女子生徒に付き合えないと言ったあと、通りかかった先生に彼女候補がいることを教えた。麻奈美のことを知っているその先生は、平太郎にその話をしたのだろう。
「麻奈美と修二君の関係は、君にも話したよな」
「はい。麻奈美ちゃんは、彼には興味ないって」
「つまり──君のことしか、頭にない。君だって気付いてるはずだ。なのに、どうして実行しないんだ、やるべき最大の恩返しを」
「やりたい気持ちは山々なんです。でも、それは──」
「やっぱり守るのか。教師としてか? 大人としてか?」
 星城の教師として、守るべきもの。
 大人の男として、傷つけてはいけないもの。
 二つの立場の間で僕はずっと悩んでいた。それはこれからも変わらない。
「両方です。だから、今は言えません。でも、必ず──」
 正面に座る平太郎を真っ直ぐ見て、それから僕は頭を下げた。
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