角砂糖が溶けるように

9-9 最後のわがまま

 浅岡との話が長引いて、いつの間にか時計の針は二本とも下を向いていた。母親が心配しているかもしれない、と麻奈美が言うと、颯太は近くの公衆電話へ走った。それからポケットから手帳を出して、麻奈美の家の番号を押した。颯太にはまだ麻奈美と行きたい場所があって、帰りが何時になるかわからないらしい。光恵にそれを伝えても、全く怒っていなかった、むしろ喜んでいた、と颯太は笑った。
 目的地は山の上にあるようで、坂の途中の小さなレストランに颯太は車を停めた。暗くてよくはわからないが、ログハウス風の造りになっていた。
 窓際の席に案内され、二人並んで座った。窓からは綺麗な夜景が見渡せた。店長オススメのビーフシチューのセットを注文し、食後の飲み物は颯太はもちろんコーヒーで、麻奈美は紅茶にした。
 颯太が行こうとしているのは、去年のクリスマスにデートしたあの展望台だった。
 次にここに来る時は、颯太が本当の彼氏だったら良いな。
 そう思ったクリスマスの夜。颯太も同じようなことを言いかけたけれど、途中でやめたから何を言いたかったのかはわからない。
「学生時代、よくここに来てたんだ。大夢で勉強してから、車飛ばして……この夜景、麻奈美と見たいな、ってずっと思ってた」
 麻奈美は何も言わず、颯太に腕を絡めた。
「その夢は、叶った。麻奈美を彼女にしたい、って思ってたのも……」
「私も──ずっと気になってた」
「うん。松田さんに聞いたよ。本当に、僕で良かった?」
 苦笑いしながら麻奈美を見つめる颯太に、麻奈美は首を傾げる。
「ほら、実習のとき……あの時は本当に、嫌われても仕方ないと思ってた。僕の家は──今は出てるけど──あんなんだし。実際、僕も悪いことしてきたわけで……今も時々思い出して悩むんだ、本当に教師やってていいのかな、って」
「いいよ。私は、颯太には──決めたことを貫いてほしい。お店で勉強してるのをずっと見てたから、先生になって欲しかった。良い人って、わかってた。悲しい顔は、見たくなかった……だから、ずっと応援してた。ときどき──彼女に出来ない、って言われて、ショックで嫌にもなったけど」
「あれは、本当にごめん、でも、そう言うしか……」
「うん。颯太はいつも優しかった。だから、嫌いにはなれなかった」
 大夢でお気に入りのグラスを割ってしまった時も。
 浅岡と一緒にいるのを見てしまった時も。
 颯太のことを避けながら、本当は一番、気にしていた。日常から颯太がいなくなる──考えただけで、辛かった。
「麻奈美」
「ん? ──っ!」
 呼びかけに顔を上げると、颯太の唇に捕まった。麻奈美だけが彼の腕を捉えていたはずが、形勢は逆転していた。颯太の腕の中に、麻奈美は閉じ込められていた。
「な、なんで、こんなとこで」
「なんでって、したかったから。他に理由なんかないよ」
 楽しそうに笑う颯太の前で、麻奈美の顔は引きつっていく。けれど──。
 それは全く嫌ではなくて。むしろ、してもらえることが嬉しくて。
 再び近付いてきた颯太の顔から、麻奈美は逃げなかった。誰が見ているかわからない屋外でキスをするのはものすごく恥ずかしいけれど。
 颯太の腕の中で、麻奈美は一瞬、上を向いて背伸びをした。
「あっ、こら、麻奈美」
「へへへ」
 初めての、麻奈美から颯太への触れるだけのキス。
 彼がしてくれるように上手くは出来ないけれど、麻奈美にはこれが精いっぱい。
「私だってしたいもん」
 麻奈美は颯太に抱きつき、両腕を背中に回した。そのままぎゅぅっと抱きしめると、大好きなにおいがした。
 ぽんぽん──。
 最初は子供扱いされていると思っていた颯太のその癖も、今は麻奈美のお気に入り。颯太は麻奈美の髪を撫でてから、その手を背中に降ろした。
「麻奈美、今日は何の日か知ってる?」
「今日? 今日は三月……えっと──」
「十四日だよ、今日は」
 三月十四日──ホワイトデー。
 忘れていたわけではないけれど、特に目立たない日。颯太には毎日会っていたから、あまり気にしていなかった。もちろん、バレンタインのお返しは欲しいけれど……。
「ありがとう、麻奈美。今まで何回も助けてもらって」
「う、ううん、何も……私は自分がやりたいようにやっただけ」
「それでも、今の僕がいるのは、麻奈美のおかげだ。だけど」
 麻奈美を抱きしめる腕の力をほんの少し強めた。
「だけど──このままじゃいけない。生徒に助けられるなんて、ダメな教師だよな」
 そんなことないよ、と笑いながら、麻奈美は顔を颯太の胸に埋めた。自分とは違う男の体に、ほんの少し、鼓動が速くなる。
「これからは、麻奈美を支えながら……良い男になって、良い大人になって、良い教師になる。もう麻奈美を心配させないようにするよ」
「うん」
「だけど、その前に一つだけ、僕の──最後のわがままを聞いてほしい」
「わがまま?」
 麻奈美は自分の腕を緩め、颯太の顔を見上げた。
 綺麗な瞳が真剣に麻奈美を見つめた。
「──颯太? どうしたの?」
「麻奈美が……専門学校を卒業してからで良い。なんなら、お店を継いで落ち着いてからでも良い。麻奈美を──お嫁さんにしたい」
 麻奈美がすぐに返事をしなかったのは、颯太に顔を見せたくなかったから。
 涙をこらえるのが難しくて、歯を思いきり食いしばった。それでも我慢はできなくて、溢れる涙は止まらなかった。
< 81 / 84 >

この作品をシェア

pagetop