柊くんの誤算

 家に帰るとまた、忙しない。
 共働きの両親の帰りは遅く、俺が弟達の迎えに行き、帰宅すれば直ぐに晩飯を作らなければならないからだ。
 ヤングケアラーとまではいかないと思っているが、そこそこに大変な日常だった。
 だから、部活は出来ない。図書委員の当番も、人がいなければ早めに図書室を施錠したりする。ちょっと難しい日に当たれば、誰かと変わって貰ったりしてなんとかこの日常を守っていた。
「椿くんーっ! (りゅう)がおれのエンピツ盗んだー!」
「ちげーしッ! 椿くん、耀(よう)が嘘つくー! おれ、エンピツなんて盗んでねぇし! 借りただけだし!」
「貸してって言ってないじゃん! ドロボーじゃん!」
「ちげーし! 言ったし!」
「言ってない!」
 焼き飯をフライパンで炒めながら、はぁ、と溜息まで混ぜん込んでしまった。まさかそんなんで、飯の味は変わらないけど。
 俺が小学三年生の頃に想いを馳せた。果たして、こんなにも幼稚なことで誰かとケンカをしていただろうか……。
「うるせぇぞ、お前ら。琉、耀が『貸してもいい』って言ってないなら、お前が悪い」
「はぁ?! おれ、貸してって言ったし!」
「でも、耀には聞こえてなかったんだろ? 言ってないのと同じだよ」
「はぁっ?! 理解できねぇー! 椿くん、キライ!」
「はいはい。琉が本当に、俺のことを嫌いなら嫌いでいいけど、『好き』とか『嫌い』とかを感情に任せて口にするのは、人間としてどうかと思うぞ」
「意味わかんねぇよ!」
「そうかー」
 気が遠くなりそうになるのを、フライパンの上で俺に操作される焼き飯を眺めやることでなんとか保った。子供との会話って、どうしてこうも難しいのだろうか。
 そう思った時、突然、図書室で出会したあの男の顔が浮かんだ。途端に腸が煮えくり返るような心地になる。ぐっと眉毛が寄ったのが自分でも分かった。アイツとは、生涯、理解し合う日なんて永遠に来ないと思う。
 琉や耀があんな風になったら大変だ。そうなれば、その原因の一端は、俺にもあると思う。
「……椿くん……」
 気が付くと、直ぐ真横……と言うか、真下に耀が立っていた。こちらをじっと見上げ、不安げに瞳を揺らしている。
 琉と耀は双子なのに、性格はまるで異なる。
「……どうした、耀?」
 俺は焼き飯を炒める手を止めて、耀に向き合う為に屈んだ。目がかちりと合うと、遂に耀はらはらと涙を溢し始めた。
「琉!」
 俺に怒られて、琉が耀を殴ったのかと思った。琉を呼んだが、どうやらリビングから出ていったらしい。カウンター越しに覗いてみたが、琉の姿はない。
「違うよ!」
 俺の怒鳴り声に、怯えたのは耀の方だった。俺はこっそりと息を吐き、また姿勢を低くして、琉よりもずっと臆病な耀の視線に合わせた。
「……椿くん、ごめんなさい。……おれが嘘ついた」
「嘘?」
「うん……。琉はちゃんと『貸して』って言った」
「え?」
 まさか、と目を丸めた。直ぐ隣でジューと嫌な音がして、慌ててコンロの火を切った。
 改めて、耀の目を覗き込む。
「……じゃあ、琉は耀の鉛筆を勝手に使ってないってこと?」
 コクリ、と頷く様子が、今度は真宮を連想させた。やはり彼女の正体は、小学低学年のようだ。
「なんでそんな嘘をついたんだ?」
 だって、と震える声が訴える。事実じゃなくて、事実を伝えることの不安を。子供は、こういうところが素直で分かりやすい。直ぐケンカを始めることには嫌気が射すが、こういう様子は尊いようにも思う。俺がもうすっかり忘れてしまった感情を全て、何の淀みも疑い無く、純粋に持っているのだと思うと、守ってやらねばと感じてしまう。
「……そう言ったら、椿くん、こっちへ来てくれるかなぁって思って……」
「えっ、俺? なんで? リビングに来て欲しかったってこと? なんか用事があった?」
 ふるふる、と小さな頭が左右に揺れる。
 それからはもう、「ごめんなさぁい~」と泣いて泣いて、話にならない。俺は抱き締めたくなるのをぐっと我慢して、頭をポン、と撫でた。耀を抱き締める先に、琉を抱き締めなきゃいけないと思った。
「お前が泣くのは、違うだろ?」
 敢えて厳しい言葉を選ぶと、耀は結局、もっと泣いてしまう。難しいなぁ、子供。強くて逞しい男に育って欲しいけど、どうしたらいいのやら。再び溜息を溢しそうになるのを、なんとか飲み込んだ。代わりに、ポンポン、と今度は二回、その小さな頭を撫でてやる。
「琉に謝るぞ。お前が謝るべきは、琉であって、俺じゃねぇよ」
 また言葉遣いが汚くなった。脳裏に浮かぶ人影がハッキリと形を作る前に、霧散させてる。別に俺も元々品がいい人間ってわけでもない。
 切り替えてこう。
 俺は耀と手を繋ぎ、琉を探して二階へ上がった。案の定、琉は部屋の隅っこで膝を抱えていた。どうやら泣いてはいないらしいが、涙が流れていないからと言って、泣いていないとは限らない。寧ろ、目に見える涙よりも、目に見えない涙の方が気を付けてやらなければならないと思っている。
「琉、疑ってごめんな」
 俺の声かけに、琉はそっぽ向く。
「……琉、嘘ついて、ごめん……」
 耀の謝罪にも、琉はこちらを向かない。
 それはそうだろう、家族が自分のことを信じてくれないって言うのは、子供心にとても傷付くものだ。
「兄ちゃんが悪かった」
 影響されたわけではないが、後ろから琉を抱き締めてみた。頑なだった琉の身体が、更に強張るのがわかった。それでもダメ元で「本当に、ごめんな?」と普段より幾分も優しい音色の声で言うと、ふにゃりと力が抜けるのが分かった。
「…………おれも、………ごめん」
「琉が謝ることなんか無いよ」
「……椿くんのこと、『キライ』って言って……」
 ハッとしてつい琉の顔を見ると、強がりの琉の瞳はうるうると震えていた。そうか、お前、そこで泣くのか。
「琉、ごめんんんんんんんんーーーーーーッ!」
 先にダムが決壊したのは耀の方だった。まだ泣くのかよ、って思わずツッコミを入れたくなるような泣きっぷりに、つい、笑いが漏れる。仕方がないから、二人まとめて抱き締めた。

 愛おしいかよ、お前らは!

 結婚願望も子育て願望もないが、それとこいつらが大切なこととは、まったく別の感情だった。



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