社宅ラプソディ

3.棟長はキョウコさん



「はじめまして、川崎棟の棟長を務めております、川森今日子でございます」


「佐東です。よろしくお願いします」


「さきほどはおいでいただきましたのに、留守にしており失礼いたしました」


よどみなく口上を述べた川森今日子は、手本のような丁寧なお辞儀をした。

長身の背中が見えて明日香もあわてて頭をさげながら 「佐東明日香でございます。お願いいたします」 と言うべきだった、「あっ、はじめまして」 も言わなかったと気がついたがもう遅い。

部長候補の妻である彼女に、佐東亜久里の妻はまともな挨拶もできないと思われたかもしれない、最初が肝心だったのに、口に出してしまった言葉は戻せない。

明日香の曇った顔を新生活への不安と受け取ったのか、川森今日子から、 


「なにかとご心配でしょう。わからないことは何でも聞いてくださいね」 


優しい言葉とともに、明日香の背中へ手が添えられた。

さりげないしぐさもさまになっている、さすが部長候補の妻と心で拍手をおくりながら、近くで買い物ができるところはどこかと尋ねると、川森棟長は二軒のスーパーの名をあげた。

どちらも歩いていくには遠すぎる、もし足がなければ買い物に行くときに声をかけましょうか、私の車で行きましょうと言われたのに、明日香の正直な口は、「アシスト自転車があります。頑張って買い物に行きます」 と言っていた。


「ステキな自転車をお持ちですね」


にこやかに応じているが、明日香と一緒に買い物に行けないことを残念がっているようにも見える。

けれど、明日香は返事をするわずかの間に 「気の張る相手と行くより一人の方が気が楽だ、優等生のような棟長と買い物に出かけたら、値引き品など買いにくい」 と考えた。

買い物先が多少遠くて不自由でも、電気の力を借りて自転車をこいで出かけた方が、値引き品もお買い得品も買い放題で、それに、棟長に借りを作りたくないと思ったのも確かだ。

そう思う一方で、新人らしく川森棟長の言葉に 「嬉しいです。ぜひご一緒させてください」 と甘える方が好感度は上がったのではないかと思ったりもしている。

「大きな買い物があるときなど、いつでもお声かけくださいね」 とかさねて言われて、さすがに 「いえ、いいです」 と返すような世間知らずではない。

「そう言っていただけると助かります。ありがとうございます」 と大人の対応をしているところに、ようやく手のあいた亜久里が出てきた。


「初めてお目にかかります、営業二課に配属されました、佐東亜久里です。

川森課長のもとで働けるのを楽しみにしておりました。妻ともども、どうぞよろしくご指導ください」


見事な挨拶だった。

さすがグリさん、やるときはやるのねと感心する明日香と同じく、川森今日子も亜久里の挨拶を満足そうに受け取った。


「ご丁寧にありがとうございます。さっそくですけれど、こちらは社宅自治会の会則、川崎棟のご紹介と入居者名簿です。

市の広報誌も持参いたしました」


「ありがとうございます。さっそく目を通します」


亜久里が答え、それから……と川森棟長の長い話がはじまった。



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