幸せでいるための秘密
 美咲……は、私以上に芸術に興味がないタイプだ。それに既婚者をいきなり休日に呼び出すのは気が引ける。

 でも、他に突然お誘いできるようなお友達なんて、残念ながら私にはいない。当たり障りのない知人は多いけど、休日に突然美術館に誘うだなんて、結構深い仲じゃないとなかなか難しいだろう。

(本当にどうしよう。樹くんはああ言ってたけど、やっぱり一人で見に行こうかな)

 自分のコミュ力の低さにひどく情けない気持ちになる。

 そのとき、普段ほとんど鳴らない私のスマホが聞き慣れないメロディを流し始めた。急いでスマホをひっくり返し、これが電話の着信音だと気づく。

 発信元は……『桂さん』?

(珍しい。電話なんて一度もかけてきたことないのに)

 戸惑いながら電話に出る。「もしもし?」と声をかけると、なぜか三秒ほどの間を置いて、

『百合香?』

 と、桂さんの穏やかな声が聞こえてきた。

「百合香です」

『そう』

 ……自分からかけてきたのに、この適当さは何なのだろう?

 ちょっとおかしく思いながら、

「どうしたんですか」

 と続きを促す。

 桂さんは、今度は五秒近く黙った後、

『褒めてほしくて』

 と、なんてことないように呟いた。

「ほ、褒める?」

『そう』

「ええと、例えばどんなふうに……」

『別になんでも。頑張ったね、とか、偉いね、とか』

 それって完全に、親が子どもを褒めるときの言い回しではないだろうか。私が年上の桂さんにこの言葉を使うのはなかなか勇気が必要だ。

 でも桂さんの側から求めてきたとなると、もしかしたらご病気の関係でつらいことがあったのかもしれない。せっかく頼ってもらったのだから、力になりたい気持ちはある。私は気持ちを奮い立たせて、見えもしないガッツポーズまで作って言った。

「……が、頑張りましたね!」

『うん』

 電話の向こうで桂さんが小さくうなずくのがわかった。

『それじゃあ』

「えっ、用事これだけですか?」

『そうだけど……だって、お前、これから仕事でしょ?』

「いえ、今日は土曜日なのでお休みです」

『そうなの? ああ、土曜日か……』

 細く長いため息と、ベッドが甲高く軋む音。ぺたぺたというのはスリッパで歩いている音かな?

 窓辺に腰かけ、街を見下ろす桂さんの横顔が目に浮かぶ。

『ねえ。遊びに来てよ』

 いいこと思いついた、とでも言いたげに緩く弾んだ桂さんの声は、私に断られる可能性なんて微塵も考えていないように聞こえた。

『暇ならでいいよ。忙しいなら別に』

「特に忙しくは……でも、桂さんはいいんですか?」

『土曜なら平気。基本いつでも暇だから、来てもらえると嬉しいんだけど』

 コルクボードをちらと一瞥。企画展の予約時間は午後からだから、午前いっぱいは桂さんの病院へ出かけても十分間に合う。

 それに私も、せっかく買った可愛いワンピースの落としどころを探していたところだ。

「わかりました。じゃあ、お邪魔しますね」

 私の言葉に桂さんは小さく微笑むと、

『待ってるね』

 と乙女みたいに囁いた。
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