幸せでいるための秘密
 私は――

 とっさに自分のスマホを手に取ると、すぐに樹くんへ電話を掛けた。3コール、4コール、5コール……すぐに出てくれないのはわかってる。でも、拳を握りしめてじっと待つ。

 やがて、ぷつと小さな音とともに、コール音が鳴りやんだ。耳の痛むほどの沈黙の奥に、かすれた息遣いが聞こえてくる。

「……樹くん、あの」

『悪かった』

 その声を聞いた瞬間、心臓が鷲掴みにされたみたいに鋭い痛みがほとばしった。

『謝って済む問題じゃないことはわかってる。今更言い訳なんてしない』

「……樹くん」

『桂の話は……すべて正しい』

 私の声なんて聞こえていないみたいに、樹くんは苦しげに続ける。

『俺は父親と縁を切り、まったくの他人として生きてきたつもりだった。父が母に何をしてきたのか、母がどれだけ苦しんできたのか。子どもなりに全部理解した上で、ひとり決別した気になっていた』

「それは……」

『でも蓋を開けてみれば、俺が今まできみにしたことはすべて父の二の舞だ。俺は結局、あれだけ嫌っていた……憎んでいた父と同類の男だったんだ』

 かける言葉が見つからない。

 話をしたくて私の方から彼に電話を掛けたはずなのに、何を言いたかったか、言うつもりだったか、まったく頭に浮かばない。

『部屋については所有権をきみに移すよう頼んでおいた。家賃も当面の分はすでに支払ってある』

「待って」

『きみの会社にも連絡をして、話はすでにつけておいた。きみが心配するようなことは、正真正銘なにもない』

「今どこにいるの? 椎名くんの家?」

『これ以上きみに迷惑をかけたくない。俺が傍にいないことこそが、きみの幸せだと思うから』

 息の詰まる音がする。

 喉の震えが、瞳の熱が、電話越しに伝わってくる。



『もう――二度と、会わない』



 その言葉だけを最後に残し、返事を待たずに電話は切れた。

 かけ直しても数コールの後に留守番電話に繋がるだけ。話がしたいとメッセージを入れたけど、折り返しかかってくる気配はない。

 スマホを片手で握りしめて、私はその場に立ちすくむ。頭の中をぐるぐると、樹くんの言葉が駆け巡る。

 ひとりぼっちの部屋の中で、力なくソファに座り込む。

 ここで私を抱きしめてくれた彼は、もう、どこにもいない。
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