転生したら幼精霊でした~愛が重い聖獣さまと、王子さまを守るのです!~

11 異国のひと

 大樹を上っていく間、ジーンは影が足元から伸びて体にからみついてくるような気分だった。
 もう太陽が落ちて動物や植物たちは眠りについている。だから静まり返っているとわかっているのだが、どうにも落ち着かない。いつもは目を閉じてでも歩ける枝の上なのに、足を踏み外しそうになる。
 ジーンは振り向いてイツキを呼ぶ。
「イツキさん」
 頼ってはいけないと思いながらも、ジーンは心を衝く不安のままに彼に問う。
「また魔獣がいるんでしょうか」
 以前遭遇した魔獣は、近付いてきただけでジーンの全身が痛んで、身動きもできなくしてしまった。またそれがやって来ると思うと、怖くて体がすくんでしまう。
 イツキはすぐに歩み寄って来てジーンの隣に並んだ。屈みこんで、安心させるように首を横に振る。
「魔獣ではありません。確かに嗅ぎ慣れない匂いがしますが、この気配は人間です」
「人……」
「仕留めましょうか」
 ジーンはイツキの言葉に遅れて違和感を覚える。
(あれ?)
 ジーンは慌ててイツキを振り向いて言う。
「だめです。仕留めてはいけないです」
 イツキの長身を見上げながら告げると、彼は首を傾げながらも何も言わなかった。
 ジーンが自分の住処まで辿り着いた時は夜半過ぎだった。ようやくジーンは安心して、小屋の扉に手を掛ける。
 そのとき、ジーンが嗅いだことのない匂いがした。
「このような場所に住まう者がいたとは」
 背後の暗闇から地を這うように低い声が聞こえて、ジーンはびくりとする。
 それは谷底がふいに開いて待っているような、未知に続く恐れ。
 ジーンがその恐れを抱きながら振り向くと、糸のような月明かりを浴びて旅装束の男が立っていた。辺りが闇に落ちていてその顔はよく見えないが、声はまだずいぶんと若い。
 無言でジーンの前にイツキが立ち塞がる。イツキの張り詰めるような空気に、ジーンはイツキが男を傷つけるのではないかと心配した。
 ジーンはイツキを留めて男に歩み寄る。
「旅の方ですか?」
 ジーンは恐れに震えそうな体を叱りながら、男に問いかける。
「もう暗いですし、大樹を下るのは危ないです。お泊りになりますか?」
「ジーン。いけません」
「でも」
 イツキは鋭く否定の声を上げる。ジーンはそれに眉を寄せて返した。
「今から下ったら足を滑らせておけがをしてしまいます。……どうぞ、お入りください」
 ジーンは男に向き直って、後ろの小屋を示しながら勧める。
 男はイツキを見やってから頷いた。
「ひと時足を休ませてもらえるだけでいい」
「では」
 ジーンは男を小屋の中に通して、急いで来客用の椅子の埃を払って整える。大樹の上を訪れる者はめったにいないから、実はこの椅子を使ったことは一度もなかった。
 ジーンは油で小さな灯りをともしてから、りんごのジュースを木のカップに入れて差し出した。
「このようなものしかありませんけど」
 男はカップを受け取って、そこでジーンは灯りの中で初めて男の姿を見た。
(え……?)
 ささやかな灯りの中に浮かび上がったのは、あまりに異質な面立ちだった。
 濡れたように光沢のある黒髪は短く切り揃えられ、それに対して肌はまぶしいほどに白い。青い瞳はイグラントでも持つ者はいるが、彼の瞳は氷の海のように深い蒼だった。目は目尻に向けてすっと切りこまれたようで、鼻はイグラント人に比べれば低いが上品に鼻筋が通っている。
 イグラント人とは確実に違う異国の顔立ちだが、一目見たら忘れられないほどの美しい青年だった。ジーンはその見慣れない容貌に恐れを感じながら、目を逸らすこともできないほど引きつけられた。
 青年はそんなぶしつけな視線には慣れているようで、淡々と答える。
「東方の者の顔を見るのは初めてか」
 十代の後半ほどの若さに見えるが、その言葉には落ち着きがあった。ジーンは言葉も忘れて彼の面立ちを見つめていたが、慌てて言葉を投げかける。
「東の海の向こうにも国があるのだそうですね」
「ああ。私の生まれはクレスティア王国だが、東方の母の特徴が強く出たらしい」
 ジーンは、クレスティア王国のことも聞いたことがあった。イグラントとベルギナという国を挟んだ向こう側の、東の森の中にある小さな国だ。
 青年はカップを傾けながら、ジーンを見つめて言う。
「そなたが異界から来た娘と聞いた」
 青年の口調は、高貴の者が口にするような言葉遣いだった。ジーンは隠すことも考えたが、なぜか青年に嘘は通じない気がしてうなずいた。
「はい。私はジーンといいます。あなたは?」
 青年はそこで少し思案するように黙ってから答える。
「私はセルヴィウス」
 ジーンが彼の名前を心の中でつぶやいていると、セルヴィウスはイツキを振り向いた。
「そちらの御仁は?」
「フェルニル」
 壁際に控えていたイツキの声が強張っていることに、ジーンは気づいた。抑えた声音で、セルヴィウスを見下ろす眼差しは冷ややかだった。
 セルヴィウスはゆっくりとうなずいて言う。
「木の国にはそういう名前の聖獣がいるらしいな」
 セルヴィウスの言葉にはどこか嘲笑う色があった。恐れながらも敬ってその名を口にする騎士団員や村人たちの声とは違う。
 イツキは声を低めて問いかける。
「なぜこのような大樹の奥深くまで立ち入った?」
 尋問するような問いかけにジーンは身がすくんだが、セルヴィウスは微笑を浮かべたまま問い返す。
「なぜ立ち入ってはならぬのだ?」
「ここは聖域。イグラントの民たちも軽々しくは踏み込まない場所だ」
「精霊のおわすところ、金のりんごが生る場所?」
 イツキは顎を引いて眼光鋭く青年をにらみつける。
「貴様、精霊を害するつもりで踏み込んだか」
「……くくっ!」
 ふいにセルヴィウスは耐えきれないとばかりに笑い声を立てると、首を傾けて言う。
「そのような土俗信仰にしがみついておるから、イグラントは歩みを止めたのだ」
 海のような蒼い瞳が、呑み込むようにジーンを見据える。
「精霊も聖獣も、信じるに値しないものだ」
 セルヴィウスがそう告げた瞬間、ジーンの胸を鋭い痛みが貫いた。
 体が言うことを聞かず、ジーンは椅子から床に倒れ込んだ。同時にイツキが崩れるように床に膝をつく。
 ジーンに起きた変化は魔獣に遭遇した時よりも強かった。心臓を突く痛みは全身を襲う激痛となって体を蝕み、呼吸すらできない。
 イツキは肩で息をしながら、守るようにジーンの前に出た。
「貴様!」
 イツキのうなるような叫びとともに彼の右手から槍のような四本の金の爪が生えた。
 空を切って、セルヴィウスの喉元に金の爪が迫る。巨大な爪は一振りで人の首など落としてしまえそうだった。
「う……ぐ」
 けれどイツキは爪をセルヴィウスの喉元に突き付けたまま止まった。見えない何かに抑えつけられてでもいるように、小刻みに震えている。
 セルヴィウスは不思議そうに目を細めて言う。
「どうした?」
 セルヴィウスは目の前に迫る鋭利な爪も見えていないようだった。
 鉱石のようだったイツキの爪が先からひび割れていく。セルヴィウスに触れようとした先から砂のように崩れてしまう。
 イツキは苦しそうに震えながら、それでもセルヴィウスに叫ぶ。
「ジーンに近付くな!」
 イツキの声に大気が応じたように、小屋の中に突風が駆け抜ける。
 けれど奇妙なことに、セルヴィウスは風を感じていないように涼しげに座っている。
 イツキは獣が子どもを守るような殺気を放っていたが、セルヴィウスはただ感情の読めない目で彼を見返していた。
 セルヴィウスはふいにゆるりと首を巡らせる。
「夜も更けた。これで失礼しよう」
 彼はあっさりと席を立って、空になったカップをテーブルに置く。
「ジーン。この飲み物は実に美味かった。礼を言う」
 それだけ言って、セルヴィウスは衣擦れの音も立てずに小屋を出て行った。
 突風はやんで、イツキはがくりと床に倒れ込む。静寂の中に、イツキの熱病にかかったような呼吸が響いていた。
「う……」
 イツキは何度か倒れ込みながらも上体を起こして、這うようにしてジーンのところまでやって来る。
 ジーンは既に意識もほとんどなかった。全身を苛む痛みで体の感覚は無く、抜け殻のように床に倒れ伏していた。
 イツキはジーンを助け起こして告げる。
「ジーン……もう、大丈夫」
 イツキはジーンの額に優しく口づける。その途端に体の痛みが和らいだのが淡い記憶で、まもなくジーンの意識は暗い闇に沈んだ。
 次に目が覚めた時、ジーンは寝台に横たわっていた。激痛は止んでいたが体がずっしりと重く、指先すら持ちあがらない。
 寝台の横にイツキがひざまずいて、ジーンの手を強く握りしめていた。イツキの触れた場所から温かい何かが流れ込んでくるようで、ジーンはしばらく浅い呼吸を繰り返しながらその流れに身を委ねていた。
 ジーンは呼吸が楽になってくると、掠れた声で問う。
「……イツキさん、体は」
「私のことはご心配なく。爪はじきに治ります」
 ようやく口が利けるようになったジーンに、イツキは治り始めた手を見せて返した。
 ジーンは震えながら、もう一つ問いかける。
「あの人は」
 イツキは途端に表情を強張らせて、言葉を選んだようだった。
 イツキは顎を引いて、慎重に話しかける。
「あれは精霊に呪われた者。強い負の言霊で、精霊を傷つける危険な人間です」
「のろわれて?」
 イツキは苦しげにうつむいて言う。
「申し訳ありません。聖獣を信じない者には、私は触れることもできないのです」
 イツキはふいに顔を上げて、暗い光を目に宿す。
「……ですが、どのような手を使っても始末します」
 ジーンは首を横に振って、弱弱しく言う。
「始末はしてはいけないです」
「いいえ。あれは精霊にとっては魔獣より危険なのです」
 食い下がるイツキに、ジーンはやはり首を横に振る。
「イツキさんに近づいてほしくないのです」
 ジーンの目にじわりと涙が浮かぶ。
 イツキがはっと息を呑んだとき、ジーンの目からは涙があふれていた。
「お願いです。危ないのです。近付いちゃ駄目です……!」
 イツキに何かあったらと思うと、ジーンの体は震え始めていた。堪えているのに、涙も止まらない。
 ジーンはセルヴィウスが心底恐ろしかった。あのひとを目の前に描くと体の芯から冷たくなっていく。精霊も聖獣も信じるに値しないと言われた時の激痛を思い出しただけで、心臓が止まってしまいそうだった。
 イツキはおびえるジーンの頭を撫でて、優しく言う。
「……わかりました。あなたの言う通りにします」
 イツキはジーンの髪を梳きながら話しかけた。
「ほら、あなたが泣いていると動物たちも不安そうです。目を閉じて耳を澄ませてみてください。……みんな心配していますね?」
 壊れたように涙を流すジーンの手を握って、イツキは静かに言う。
「怖がらないで。さあ、おやすみなさい」
 そっとイツキの冷たい手がジーンの頬を撫でる。
 その心地よさに、ジーンの意識はゆっくりと眠りに沈んでいった。
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