転生したら幼精霊でした~愛が重い聖獣さまと、王子さまを守るのです!~

15 異界の入り口へ

 イグラントが建国されてからおよそ三百年間、この国への侵略は絶えなかったらしい。
 痩せた土地ばかりの北方では、イグラントの土地の豊かさは魅力的だった。ここでは大樹から色とりどりの植物が育ち、まるで密林のように生き物が集まる。イグラント王家によって開墾されたふもとの土地は、大樹の根が隅々まで水を運んで年中作物を実らせた。
 もう一つの重要な理由は大樹だった。北方の民たちは、大樹は世界の中心にある樹だと信じていた。この地を制する者が世界の覇権を握るといわれた。
 大樹に実る金のりんごを食べると不老不死になれる。その伝承を本気で信じる者も多かった。
 今日も朝からベルギナより警告が届いて、フレイアがその文書を読み上げる。
「『木の国はいにしえより我がベルギナの領土である。異民族は速やかに立ち去れ』」
 羊皮紙から顔を上げて、フレイアは呆れたようにぼやく
「やれやれ、ベルギナが建国されたのはイグラントより百年も後じゃない」
 けれどフレイアに楽観している様子はなく、眉間のしわも消えない。
 イグラントを建国した者たちも、この地にとって異民族であるのは否定できない。いくらイグラントは元々そこにいた人々と争わなかったとはいえ、隣国であるベルギナにだって大樹に暮らしていた血筋の者はいくらでもいる。先に大樹に住んでいた民がいつから大樹に住んでいたのか、どの民族に分類されるのかもはっきりしない。
 隣国ベルギナの軍が国境を越えてから二十日が過ぎた。ベルギナ軍は五層ある城壁の第一層の城壁から弓矢が届かない距離に布陣してイグラントを包囲している。
 ベルギナ軍はおよそ三万。対してイグラントは騎士団が約千人に、一般兵が四千ほどで、全部で五千に過ぎない。単純な数だけなら六倍の敵を相手としなければならないことになる。
 けれどイグラントの人々たちは至って落ち着いたものだった。子どもや老人、病人は騎士団の指示に従って、避難区域である三層の所定の場所へ避難した。健康な大人たちは二層に集まってあらかじめ決まっていた班を編成し、城壁の損傷や怪我人の手当てに備えている。
 イグラントの人々は外敵の来襲に対して、めったなことではうろたえない。彼らは騎士団と城壁と大樹の恵みを誇りにしている。
 精鋭で構成された騎士団はその命の限りこの国と民を守ってくれるし、城壁は何万の兵に代わるほど心強い味方だ。そして大樹は籠城戦がいくら長引いても豊かな食物で民の腹を満たしてくれる。
 イグラントの人々にとっても、この地が世界の中心だった。戦火にさらされようとも、決してこの地を手放すわけにはいかなかった。
 外の階層にいる民たちでさえそうなのだから、最深層のアスガルズ宮中は岩でも砕けない厳重な警備で守られていた。
 角笛の日から、ジーンもアスガルズ宮内に留められていた。自分は庶民だからと断ろうとしたが、フレイアに押し切られて彼女の居室の隣室で生活していた。フレイアは、警備する対象がばらばらに行動されると騎士たちの負担になると言っていた。
 ジーンは角笛から二十日が経った日の朝も、ここのところずっとそうしているように、支度を整えて隣室のフレイアの元に来ていた。
 フレイアは席につきながらジーンに問いかける。
「あなたの分は本当に要らないの?」
「ごめんなさい。朝はあまり食べられないのです」
 食卓の上にはフレイアとヴィーラントの二人分の朝食が整えられている。フレイアはジーンの分も用意させようとするのだが、ジーンは今日も謝罪と共に断った。
 ジーンは隅の椅子に掛けて窓の外を見ていた。
 木のカップに水が注がれてフレイアの朝食が始まろうとする時、窓から灰色の影が滑り込んだ。
 イツキは三階の窓から易々と室内に下り立つと、呆気に取られている警備の騎士の横を通り過ぎてジーンの横に跪く。
「どうぞ」
 大切そうに脇に抱えていた包みを解いて、イツキはまだ朝露に濡れている金のりんごを一つ、ジーンに差し出す。それにフレイアは秀麗な眉をひそめた。
「いくらまだ戦線は開いてなくても、今は緊急時よ。あなた、よく毎朝大樹の上まで行ってくる余裕があるわね」
 フレイアが呆れ調子で言うが、イツキはりんごを差し出したまま返す。
「ジーンは朝餉には大樹の金のりんごを召しあがるのです。それは精霊が健やかであるために必要なこと」
「今は国がどうなるかって時よ。朝食が何でも」
 ジーンを仰ぎ見ながら、イツキは淀みなく告げた。
「私には、イグラントの存亡などよりジーンの朝餉の方が重大事でございます」
 フレイアはため息をついたが、もう慣れてきたようで何も言わなかった。
 ジーンはイツキにお礼を言ってフレイアに謝罪しながら、りんごを口にする。甘くて喉通りのいいそれは、ジーンの不安を少しだが楽にしてくれた。
 フレイアは苛立たしげに言う。
「あの馬鹿王子、今日も起きてこないつもりかしら」
 ジーンは眉を寄せてフレイアに告げた。
「もう三日になります。いったいどうされたんでしょう」
「ほっときなさい。あいつには世継ぎとしての自覚が足らないのよ」
 ジーンは心配でたまらなかった。経験したことがない戦も不安ではあったが、ヴィーラントがここ数日食事の席にも姿を見せないことが胸を騒がせていた。
 りんごをぽそぽそとかじるジーンに、イツキは包みからもう一つのりんごを取り出す。
 イツキがジーンの手にそっとりんごを乗せると、彼の意図を察してジーンはうなずいた。
「……はい。そうしましょう」
 朝食の後、ジーンはもう一つのりんごを持ってイツキと共にヴィーラントの部屋を訪ねた。
 けれど警備の者に取り次ぎを頼んだが、なかなか部屋に通してもらえない。
 しばらく控室で待っていると、現れたのはヴェルザンディだった。ヴェルザンディは血の気のない顔でジーンたちに歩み寄って来る。
「ジーン殿、フェルニル殿。どうぞ殿下のお側に」
 ジーンたちは急かされるように部屋の中へ通された。
 ヴィーラントの寝室は調度の一つ一つが精緻に作りこまれていたが、金や宝石などの華美な装飾はされていなかった。その代わり、寝台は一本の樫の木を切り出して作った力強い木造りをしていた。
 その寝台の周りには三人もの医師が立っていた。ヴィーラントが病なのかと、ジーンはおろおろしながら寝台に歩み寄る。
 ヴィーラントは寝台の上で目を閉じて横になっていた。汗をかいたり苦しんだりしている様子はない。しかし周りにこれだけの人が詰めているのに、目覚める気配もなかった。
 ヴェルザンディは心配をにじませた声で告げる。
「殿下はもう三日も目覚めないのです。密かに医師を集めましたが、原因もわからず」
 ジーンはイツキと顔を見合わせて、どうしようと不安げにイツキを見上げた。
 イツキはヴェルザンディに問いかける。
「王子に触れてもいいか」
 ヴェルザンディがうなずくと、イツキはヴィーラントの側に屈みこんで彼の手首を取った。
 イツキは金の双眸を閉ざして、深く息をついて考え込んだ。
「……魂の気配が薄い。異界に引き寄せられている」
 ふいにつぶやいたイツキの言葉に、ジーンは問いを投げかける。
「私が元いた世界のようなところですか」
「はい。ただ、まだ異界に至ってはいません。けれど精霊に近しい者は、世界の境界を越えやすいのです」
「境界を越えたら……どうなるのですか?」
 イツキは目を開いて低く答える。
「この世界での命を失います」
 ジーンはそのときを思うと、目の前が真っ暗になりそうだった。
 ジーンは震えながらヴィーラントの手を取る。いつもジーンの手を包み込んでくれたヴィーラントの手はとても温かかったのに、今はジーンより冷たかった。顔色も白く、美しい紫の瞳は固く閉ざされたままだ。
(どうすれば……)
 なすすべもわからず、ジーンはその手に額を当てて祈るように目を閉じる。
(私で良いのなら、体温でも、血でも、命でも、何でもあげますから)
 だからどうかヴィーラントの命を助けてほしいと、祈る相手さえ知らずにジーンは祈り続ける。
「……あ」
 そのとき、ジーンは微かな声を聞いた。耳を澄ませると、それは耳ではなく体の中心に直接響いてくる声だと気づく。
 何を言っているのかはわからない。だが小さな子どものしゃくりあげる声が、確かにジーンの中に届いた。
「子どもの泣き声……?」
 つぶやくようなジーンの言葉を聞き取ったのはイツキだった。彼は小声でジーンに問う。
「マナトが何か訴えているのですか」
「はい。でも何と言ってるのか、よく聞こえなくて」
 イツキはジーンとヴィーラントを見比べて黙った。
 イツキは顔を上げて、反対側の枕元で彼らをうかがっていたヴェルザンディを見やる。
「大樹の深部に入れば、王子を直接呼び戻すことができるが」
「殿下のお命を救うすべならばお縋りしたい。すぐに護衛をおつけしましょう」
 弾けるように顔を上げたヴェルザンディに、イツキは厳しく返した。
「人間は大樹の深部に立ち入れない。私たちだけで向かう」
 ヴェルザンディは渋い顔をした。ただでさえ難しい時期に、イツキが万が一にでもヴィーラントを敵国になど引き渡したら大変なことになる。
 ジーンはイツキを見上げた。きっとイツキならヴィーラントを救うすべを知っている。そう信じて、ジーンはヴェルザンディに告げる。
「ヴェルザンディ様、イツキさんならきっとヴィーラント様を救うことができます。私が……人質になります」
 ジーンは決意を持ってヴェルザンディを見上げた。
「約束の時までにイツキさんが戻らなければ、私の命をとってください」
「ジーン」
 イツキは焦ったように声を上げた。
「私があなたを危険にさらすようなことをすると思いますか。そのようなこと、口にするのもいけません」
「では、「ヨルムンガンドの毒」を使われてはいかがか」
 唐突に割り込んできた声に、皆が振り向く。
 ヴェルザンディが警戒をまとって声の方に目を向ける。
「セルヴィウス王子。どうしてここに」
「殿下のご機嫌伺いに、と思ったが。どうやらそんなご気分でもいらっしゃらないようだ」
 寝室の戸口に背をもたれさせて、セルヴィウス王子が立っていた。黒いマントに包まれた長身痩躯から、蒼い瞳で冷ややかに場の者たちを見下ろしている。
 セルヴィウスは緊張の走った場の中で、悠々と言ってのける。
「殿下を連れ帰る保証が欲しいのであろう? それならイグラントに伝わる遅効性の毒をあおって頂けばよいのではないか」
 ジーンはその毒を、ヴェルザンディに密かなイグラントの武器として教えてくれた。
 セルヴィウスの告げた「ヨルムンガンドの毒」は、イグラント王家に古くから伝わる毒らしい。その成分は門外不出で、解毒剤の作り方も王家の限られた者しか知らない。
 その毒は調合次第で効果が現れる時期もかなり左右できる上、解毒剤によって完全に効果を打ち消すことができる。しかし解毒剤を飲まなければ確実に死に至る猛毒だ。
 先ほどより渋い顔をしたヴェルザンディに、ジーンは迷うことなく頷いた。
「私は飲みます。ですからどうか、ヴィーラント様を連れ出す許しをください」
 ジーンはヴェルザンディに向かって頭を下げる。ヴィーラントの命が失われる恐ろしさに比べれば、毒への恐怖も乗り越えていける気がした。
 イツキは反対を繰り返し、ヴェルザンディもすぐに是とは言わなかった。
 けれどジーンは二人に何とかお願いをして、その場にヨルムンガンドの毒が運ばれることになった。
 ヴェルザンディはジーンの目をじっと見据えて、慎重に言葉を告げる。
「四日以内に必ずお戻りください。よろしいですか」
「四日。イツキさん、それで足りますか?」
 盆に乗せられたグラスには澄んだ赤い葡萄酒が満ちている。
 ジーンはイツキを振り向く。イツキは深くうなずいた。
 ジーンは一度息を吸って、グラスに口をつける。
「……けほ」
 酒気は限りなく薄かったが、ジーンは酒を飲んだことがなかったので目の前がくらんだ。喉を通る酒気に驚いて、グラスから口を離して咳き込む。
「あ」
 そうしている内に、イツキにグラスを奪われた。残りの葡萄酒を、イツキがすべて飲みほしてしまう。
 ヴェルザンディは膝をついてジーンの手を取る。
「どうぞ我が王子のこと、お願いいたします」
 懇願するヴェルザンディに、ジーンは決意を固めてうなずいた。
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