転生したら幼精霊でした~愛が重い聖獣さまと、王子さまを守るのです!~

17 抱きしめた心

 ジーンが振り向くともうそこにイツキはいなかった。りんごの木が枝を広げていただけだった。
 ジーンはりんごの木を見上げてため息をつく。
「わぁ」
 それは先ほどまで見ていたりんごの木とは違っていた。目の前に伸びるりんごの木はすべて輝石で出来ていた。幹は茶褐色の水晶、葉は碧玉で、そして透き通るような琥珀で出来たりんごがいくつも成っていた。
 前に向き直ると、そこは緑のトンネルだった。ちょうどジーンの背丈が入るほどの高さまで、緑の蔓が張り巡らされていた。
(軽い)
 自分より体格のいいヴィーラントを背負っていても、ジーンはまるで重みを感じなかった。辺りには甘くかぐわしい香りが漂っていて、息を吸うたびに体が軽くなっていくようだった。
 やがてジーンは緑のトンネルを抜けて開けた場所に出る。そこは辺り一面に花が咲き乱れていた。赤や黄色、青に紫、緑や白、様々な色が金色の光を浴びて生き生きと花びらを広げている。
(木の中にこんな広い場所があったなんて)
 見渡す限りの花畑の向こう側には、太い幹を持つ木々が覆い茂る森があった。そこから小川が流れていて、花畑の中心に泉を作っている。
 大樹の生み出す恵みを見てきたジーンでも、ここの光景には思わず見とれた。抱きしめたくなるような、生まれたての自然がそこにはあった。
 泉のほとりの緑の絨毯の上で座って、ジーンは自らの膝にヴィーラントの頭を乗せる。
「ヴィーラント様、起きて周りを見てください。とても気持ちのいいところですよ」
 ヴィーラントの髪を梳きながら、ジーンは目を閉じたままのヴィーラントに優しく話しかける。
 小鳥のさえずりと小川のせせらぎ以外何の音もしない。穏やかな時間の流れる中で、ジーンは眉をひそめていた。
「……ここに来ても私には、あなたの心がどこにあるのかわからない」
 逆さまにヴィーラントの顔を覗き込みながら、ジーンは告げる。
「どうか叫んでください。おもいきり泣いて、しがみついてきてください。私に、あなたを受け止めさせてほしいのです」
 ジーンは瞬きもせずにヴィーラントを見つめ続ける。
「マナト」
 ジーンの唇からまじないのようにその名がこぼれ落ちた。
 ジーンは糸をつむぐように大人びた言葉を話し始める。
「私はあなたの家族になれます。友人に、恋人に、他のどんなものにもなれます。でもあなたが望んでくれなければ、私は霧のひとつぶのようなもの」
 ジーンは自分の手の輪郭がぼやけて見えた。甘く柔らかな空気に体が溶けて混ざっていきそうな心地がした。
「かつてあなた方が私に触れたように、私を求めてください……」
 身を屈めて、ジーンはヴィーラントの額にそっとキスを落とした。
 ジーンは体の感覚がわからなくなって、ヴィーラントと触れているところだけに温もりを感じていた。
 そのとき、ジーンの体の芯に震えるような声が届いた。
――人間は嫌いだ。俺を傷つけるから。
 ジーンは我に返る。しゃくりあげる声と共に、ヴィーラントの声が響いた。
――でも人を傷つける俺は、もっと嫌い。
 ヴィーラントの頬を涙が伝っていた。ジーンはその頬を拭いながら言葉を待つ。
 気づけば小川が増水していた。ジーンとヴィーラントの周りを水が取り巻いたが、ジーンは不思議と恐ろしさを感じなかった。
 間もなくジーンの体はすべて水の下に沈んだ。けれどジーンは息苦しくはなかった。魚になったように水の中を自由に泳ぎながら、いつの間にか消えてしまったヴィーラントの姿を探す。
 ジーンは銀の粒のようにきらめきながら上っていく泡の流れをみつけた。それを頼りに下へ下へと進んでいく。
 水の底には泡が零れる宝石箱があった。大樹に紫の小さな花が絡むアイリスの紋章が刻まれた、ジーンの片手に乗るような小さな箱だった。
 鍵が壊れて隙間ができた蓋を、ジーンは開こうとする。
――開けちゃ駄目だ。嫌な俺ばかり出てくる。
 苦しそうなヴィーラントの声に、ジーンはそっと返す。
「でもあなたです」
 アイリスの宝石箱はためらいながら、ゆっくりとジーンの目の前で蓋を開いた。
 ジーンの眼前に、アスガルズ宮の中庭が浮かび上がった。太陽の下で、三歳ほどの幼いヴィーラントが子猫を追いかけている。それを金髪の巻毛を垂らした華奢な女性と茶褐色の短い髪の精悍な男性が愛おしそうに見守っていた。
 ヴィーラントははしゃいだ声を上げる。
「つかまえた! かあさま、みてみて!」
 ヴィーラントは子猫を抱きしめて、母親らしき女性のところに駆けて行く。
「きゃ……」
 けれどヴィーラントはあまりに強く子猫を抱いていたからか、母親のところに辿り着くまでに子猫は息絶えてしまっていた。それを見て、母親は短い悲鳴を上げて倒れてしまう。
 ヴィーラントは不思議そうに母親をのぞきこむ。
「かあさま、どうしたの?」
 構わず母親に縋ろうとしたヴィーラントの前で、父王らしい男性の顔が強張る。
「ならん!」
 ヴィーラントの頬を叩いて、父王はしまったというようにその手を引っ込める。
「す、すまぬ。ヴィーラント、痛かったか」
 妃を守るように引き寄せながら、父王は心配そうにヴィーラントに言葉をかける。
 ヴィーラントは見えない目で母を見ようとして、腕の中の今はもう息がない子猫を見下ろす。
 無邪気な子どもの笑顔が抜け落ちて、ヴィーラントはうつむいた。
 ジーンの目の前は流動して、太陽の光の届かない地下になる。そこは堅牢な石作りで四方が覆われた墓地だった。
 棺桶には花に埋もれるようにして、ヴィーラントの母君が横たわっていた。たくさんの文官や騎士たちが悲しみに暮れた様子で棺桶を取り巻いて、その中で一番父王が沈痛な面持ちをしていた。
 父王は沈んだ声でヴィーラントに声をかける。
「さ、母上にお別れの挨拶をしてきなさい」
 まだ五歳ほどのヴィーラントは表情もなく立ち竦んでいた。その息子に、父王が花束を渡そうとする。
「ヴィーラント!」
 父王の手を振り払うようにして、ヴィーラントは駆け出す。呼びとめる父王の声も聞こえていないように、アスガルズ宮の中をがむしゃらに走っていく。
 人のいない方へ逃げるように足を速めて、やがてヴィーラントは転んだ。うつ伏せに倒れたままのヴィーラントの耳に、城壁の外から声が聞こえてくる。
「おいたわしい。これからどうなってしまうんだろうな」
「陛下は新しいお妃をお迎えになるのかな」
「ヴィーラント様は盲目で御心が不安定だそうだ。王位は重すぎる。別に世継ぎをお作りになった方が……」
 兵士たちの声を聞くまいと、ヴィーラントは耳を塞いで体を小さくする。
 決して悪意ではないが子どもが聞くには酷な言葉を、ヴィーラントはただ受けることしかできないでいた。
 そのとき、ヴィーラントの前に膝をついた人影がいた。
「ここにいらっしゃったか」
 それはこの国でただ一人しか身につけることの許されない、白い羽飾りの兜と紫の制服をまとった女性騎士だった。
 彼女が顔を上げないヴィーラントの肩に触れようとすると、ヴィーラントは起き上がって無言で後ずさった。女性騎士の手が、掴むものを失って落ちる。
 けれど女性騎士は前に踏み出して、ヴィーラントの腕を片手でつかむ。
 ヴィーラントは首を横に振って言った。
「ほっといてよ。みんな、ぼくのこといらないんだ」
 ヴィーラントは視線を落としたまま、うめくように言う。
「ぼくだって……ぼくなんかいらないんだ!」
 唇を噛みしめて言い放ったヴィーラントの前で、その女性騎士は一瞬沈黙した。
「わっ!」
 次の瞬間にはヴィーラントを抱き上げて、女性騎士は宮の中へと歩いていく。
「はなしてよ、ヴェルザンディ!」
「離しません」
 ヴィーラントがどんなに暴れても、ヴェルザンディはその腕にヴィーラントを収めたまま進む。
「何もわかっていない子どもを離すわけにはいきません」
 やがて顔を歪めてしがみついてきたヴィーラントを、ヴェルザンディは強く抱きしめ返した。
 遠ざかっていくその光景を、ジーンは水底を漂いながら見つめる。
 水の深いところからヴィーラントの声が聞こえてきた。
――ヴェルザンディは、強い大人だったんだと思う。俺の容姿も、俺の力も恐れはしなかった。
 水の中に差しこんでくる黄金の光を反射して、きらきらと輝きながら泡が上っていく。その中で、ヴィーラントは言葉を続ける。
――それにヴェルザンディは正しかった。俺はわかってなかったんだ。
 ジーンはヴィーラントにうなずいて言う。
「ヴィーラント様を大切に思う人たちがいたことですね?」
 深く息をついてヴィーラントは答える。
――うん。俺をやっかむ人間は確かにいた。でもそれ以上に俺を必要としてくれた人たちがいた。
 ジーンには、その言葉は自分など要らないと叫んだ時より、切なさににじんだ声に聞こえた。
 ヴィーラントは大切なものを思う声音で、自分を囲む人たちのことを話す。
――父上と母上が子を待ち望んでいた年月も、俺が生まれた時のイグラントの民たちの喜びも、どんな時だって俺を見捨てなかったヴェルザンディの心も、長らく理解できなかった。
 ジーンはこの美しい泡はヴィーラントの涙の雫なのだろうかと考えた。小さな粒が指先をすり抜けていくのをもどかしく思う。
――俺は見えないから不安に駆られて力いっぱいしがみついていたことも、最近ようやく気づいた。……でも。
 アイリスの箱が閉じようとしていた。ヴィーラントの声がしぼんでいく。
――見えたら余計に不安になってしまった。俺は必要とされる資格があるんだろうか。こんな俺が王子で、そしていずれ王になっていいのか。
 ジーンの手の内で、一際大きな泡の粒が上がった。
――何もしないでぐずぐずしている自分の弱さが一番駄目だって、気づいてるのに。
 海底の貝のように固く閉じようとしたアイリスの箱を、ジーンは包み込む。
 ジーンは心の中に湧いて来る思いを形に変えて、ヴィーラントに伝える。
「強い人や、考えをすぐに実行できる人は、うらやましいです。私もぐずぐずしている自分が嫌いでしたから」
 ジーンはアイリスの箱を覗き込むように、その箱を自分の目線まで持ち上げる。
「嫌いなら早く動けばいいのに、変わればいいのに。けれど何度そう思っても、私はゆっくりとしか動けませんでした。そんな私に、イツキさんが教えてくれたんです」
――イツキがどんなことを?
「あなたの心のままでいいのですよと」
 ある日、イツキが寝物語代わりに語りかけてくれたことがあった。ジーンはそれを思い返して言う。
「植物にも動物にも、もちろん人にも。一人の人間の中でも、手や足や心臓にだって違う言霊が宿って、時に混乱してしまう。でもあなたはゆっくり動きたいという体の言霊を選んで、自分の意思で動いた。それでいいのですよと」
 そう言われて初めて、ジーンはゆっくりと動く自分を認めることができた。イツキがそんなジーンを善悪で判断することなく、ただ認めてくれたからだった。
「ヴィーラント様は私よりもっとたくさんの人たちを気にして、その声を聞こうとしているのですから。きっといい王さまになれると思います」
――でも、俺は意思が弱い。
「いいえ。ヴィーラント様は強い意思を持っています」
 アイリスの箱がヴィーラント自身であるように、ジーンは箱を胸に受け止める。
「私の手をそっと握ってくれた。子どもの頃のように握りつぶしたりしなかった。ヴィーラント様は自分で変わったのですよ」
 ジーンはゆっくりと動きたがる体の言霊に抗えなかった。けれどヴィーラントは不安に打ち勝って、そっと包み込むことを覚えた。
「そんなヴィーラント様を見つめる、ヴェルザンディ様や騎士の皆さんや他のたくさんの人々の優しい眼差しを伝えられればいいのですが」
 ジーンはヴィーラントの周りの人々の眼差しを見て、ヴィーラントがどれだけ愛されているか知っている。目の見えないヴィーラントにそれをどんな言葉で伝えればいいのかわからない。
――いいのか?
 ジーンの胸の内で、ヴィーラントの声が震える。
――俺はジーンがくれるような優しい眼差しに、包まれていていいのか?
 その言葉は、自分などが愛されていていいのかと言っているように聞こえた。
 ジーンは微笑む。それに対する答えは決まっていた。
「はい。あなたは私の愛する人ですから」
 アイリスの箱の中から眩しいほどの光が放たれる。ジーンにとって誰より愛しい人がそこから現れて彼女を抱きしめたのを、ジーンは全身で感じていた。
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