女王の仕立て屋
 グルーシナ王国には、月の女王と呼ばれる女がいる。彼女の名は、リンリエッタ・ソニア・デ・ソラン・イン・グルジナ・フォン・クライット。クライット公爵家の長女にして唯一の子。

 前国王の庶子を父に持ち、名家出身の娘を母に持つ。王位継承権こそ無いが、王家の血筋に誰よりも近く、生を全うするまでの自由を手にした正真正銘の御令嬢である。

 趣味は茶会や夜会。買い物とダンス。人の前に出ることを好み、誰よりも目立つことを望んでいた。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 王都の郊外。公爵家に与えられた大きな屋敷に豪奢な馬車が到着する。クライット公爵家の蝶の家紋が下げられた、一際目立つなりの馬車だ。

 一列に並んだ使用人が、一斉に腰を折った。執事が開けた馬車の扉から、菫色のドレスが姿を現わす。輝かんばかりの黄金の髪。アクアマリンを嵌めたような瞳。猫のような目は、彼女の勝気な性格を如実に表わす。

 シフォンがふんだんに使われたドレスは、彼女のつま先まで隠した。オフショルダーのネックライン、それに合わせたバルーンスリーブ。人形のように美しい彼女を最大限に引き立てるためのドレスだ。

 耳からぶら下がるペリドットのイヤリングも、白い首筋を飾る大きなアメジストも、全ては彼女を引き立たせるために存在する。

「カイン!」

 リンリエッタは、使用人の列の端から一人の男を見つけると、花が咲いたように顔を綻ばせた。すぐさま馬車を降りる。軽やかな足取りで男の元へと進んだ。

 男の瞳には、真新しい菫色のドレスの裾がひらりと揺れる。

「カイン、顔を上げて」
「はい」

 他の使用人と同じように腰を折る男の肩に、リンリエッタは手をそっと添える。それを合図に、男はゆっくりと頭を上げた。リンリエッタよりも頭一つ分大きい彼は、立てばどうしても彼女を見下ろしてしまう。

 それすらも憚《はばか》るとでも言うかの如く、彼は片膝を地に着いて、神を崇めるかのようにリンリエッタを見上げた。そんな彼の姿に、リンリエッタは小さなため息を漏らす。しかし、彼女にとっても日常茶飯事になったこの儀式は、今更咎めても意味のないものだということも理解していた。

 リンリエッタは、大きな目を細めると、極上の笑みを男に贈る。

「本日のドレスも好評でした」
「それは、宜しゅうございました」
「次の夜会には、きっとこの大きな袖が流行るわ」
「では次の夜会には、もっと美しいものを」

 男は恭《うやうや》しく礼を取った。男の名はカイン・ダインバル。彼は、リンリエッタ専属の仕立て屋である。

 幼い頃にインバルの村を出たカインは、王都のドレスサロンで運良く働くことができた。殆ど小間使いとしての役割を押しつけられたが、持ち前の器用さが買われ、少しずつドレスを作る仕事を任せられるようになる。

 リンリエッタとの出会いは、このドレスサロンであった。

 当時、クライット公爵家が出歩いて買い物を楽しむことはあまりなかった。いつも気に入りの店を呼びつけて、屋敷の中で買い物をするからだ。

 たまたまお抱えの仕立て屋が、年を理由に店を畳んだことが原因で、夫人が娘を連れて新しいドレスサロンを吟味していた時のこと。

 暇を持て余していた幼いリンリエッタは、自身よりも少し年上のカインを見つけると、すぐさま駆け寄った。

「あなたもドレスを作るの?」

 リンリエッタはカインの手元を見て、アクアマリンの瞳を輝かせた。仮縫いを手伝っていただけのカインは、針を刺す手を止めて、ばつが悪そうに目を逸らす。

「俺は……まだ」
「なら、最初のドレスは私のものを作って! 良いでしょう?」

 カインは彼女の瞳に逆らえず、小さく頷いた。その幼い出会いが身を結び、カインは五年前よりリンリエッタの専属の仕立て屋として、クライット公爵家の一室を頂いている。そして、今やこの王都で知らぬ者がいない程有名な仕立て屋となった。

 リンリエッタは、クライット公爵家の長い廊下をひた歩く。すぐ後ろには、カインが付き従っていた。

 カインはただ歩きながら、揺れるドレスの裾を目で追う。彼の頭の中はドレスで一杯だ。次の新作をどうするか。大半はそのことで占められている。

 そんな彼の頭の中を知ってか知らないでか、ふいにリンリエッタが「そうだわ」と呟いて足を止めた。上の空であったカインは、気づくのが遅れてしまう。ぶつかるすんでのところで足を止め、奥歯を噛み締めながら足に力を込めた。

 そんな努力を知る由もなく、リンリエッタは長い金の髪を揺らしながら振り返るのだ。

「カイン、知っていて?」
「何でございましょうか?」
「私、影で『月の女王』って呼ばれているのよ」
「月……ですか。その髪色ゆえでしょうか」

 リンリエッタの金髪は夜空に浮かぶ月の如く輝いている。『月の女王』と呼ばれていても
 何らおかしくはない。しかし、リンリエッタはカインの言葉に対し、頭を横に振った。

「いいえ、違うわ。どんなに輝いても、太陽にはなれないから」

 リンリエッタは、大きな目を細めて笑った。カインは、彼女の言葉に眉根を寄せる。

「そんな顔しては駄目よ、カイン。私は気にしていないの。私は王位継承権がない庶子の娘。でも、自由だわ。それに、お父様はかっこいいし、お母様は優しい。こんな恵まれた女が他にいて?」
「お嬢様は、月の女神ルーナに愛されしお方。あなた以上に幸福を手にする方はおりません」

 カインはまたもや膝をついて首《こうべ》を垂れた。リンリエッタのため息は先程よりも大きくなる。これが彼の性分だと分かっていても、リンリエッタはなかなか受け入れることができないでいた。

「顔を上げてくれないと話が出来ないわ。カイン、次の夜会はひと月後。私を月の女王にして頂戴?」

 リンリエッタの唇が綺麗な弧を描く。彼女の唇の隙間からは、白い歯が少しばかり顔を覗かせた。

「畏まりました。夜を照らす美しい女王に相応しいドレスを」

 カインは、上げたばかりの頭をまた下げる。リンリエッタはその姿に肩を竦めたが、彼の目には入ってはいなかった。
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