偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~

 とはいえ、彼も立場のある人間。

 私たちが実家に引っ越したことで満足したこともあり、仕事を理由にあまり会いに来ない。

 気の休まらない生活の中で、それだけは救いだ。

 理人とは社内で顔を合わせれば挨拶はするが、それだけ。

 彼はとにかく忙しそうで、顔を合わせることもほとんどないのが実際で、それを寂しく思う自分の身勝手さが、本当に嫌だ。

「ママ! おかえり」

 長い廊下を走って来る力登を、両手を広げて待つ。

「ただいま、りき」

 私の胸に飛び込んできて、ぴょんっと飛び跳ねる息子のぬくもりを感じる瞬間が、なによりホッとする。

「きょーね、ワンワンなでなでしたさ」

「そう? 可愛かった?」

「うん! ぬぃーるかった」

「ぬぃー……?」

「うん!」

 理人を待とうと決めてから三週間。

 だいぶお喋りが上手になった力登だが、さすがにわからない。

「きて!」

 息子に手を引かれて、与えられている部屋に行く。

「これ!」

 力登が手に持ったのは、初めて見るぬいぐるみ。

 真っ黒な犬で、恐らくドーベルマンだが、眼鏡をかけている。

 そして、ひょろーっと細くて長いそれは、ぬいぐるみというより抱き枕。

 それにしては、弾力がなさそうだが。

「おかえりなさい、りとさん」

 背後からの声に、顔を向ける。

 登さんのお母さんが、ドアの前に立っていた。

「ただいま戻りました」

「犬が好きなようだから、ぬいぐるみを買ってあげたのだけれど、どうしてもそれがいいって言うのよ? もっと、丸くて可愛いのを選ぶと思ったのだけれど」

「ありがとうございます。きっと、眼鏡……が気に入ったんだと思います。好きなテレビ番組のキャラクターも眼鏡をかけていたので」

「そう? 力登が好きならばいいの。さ! お夕飯にしましょう」

「はい」

 登さんのお母様が立ち去り、私は部屋のドアを閉めた。

 ジャケットを脱ぐ。

「ママ、かーい?」

 ぬいぐるみを差し出し、力登が聞く。

「うん。可愛いね」

「かわーい?」

「かわいい」

「かわいーいー」

「そう。上手ね」

 頭を撫でると、力登は嬉しそうに笑う。

 息子が笑ってくれると、ホッとする。

「しっちょーなの」

「室長?」

「うん。しっちょーなの」

 ぬいぐるみをよく見る。

 真っ黒で、目が細く、黄色いフレームの眼鏡をしていて、細長い。いや、背が高い。

 なるほど。

「確かに、似てるかも」

「りきのしっちょー」

「良かったね」

「うん!」

「さ、ご飯食べよう」

「しっちょーも?」

「しっちょーはお留守番」

「おっけー」

 力登はぬいぐるみをベッドに寝かせると、布団を掛けた。

 そして、胸元をポンポンと叩く。

「ねんねねー」

 息子が可愛すぎる。

「ママ、しっちょーねんねした」

「うん。あ、りき? ワンワンの名前は内緒ね?」

「いしょ?」

「ないしょ。しっちょーに一番に教えてあげよう?」

「おっけー!」

 力登が室長を呼ぶのを、みんなが聞いている。

 前は誤魔化したが、登さんは室長が理人だと知っていて、不機嫌だった。

 ぬいぐるみを取り上げるなんて大人気ないことを、やりそうだ。



 登さんは『父親』に相応しくない。



 子を持った人間が、誰しも『親』としての適性を持っているわけではないと思う。

 子供が欲しいと言ったのは、私。

 登さんは、世間一般の考えるところの『当たり前』のことだからと、受け入れた。

 父親になりたかったわけじゃない。

 けれど、彼は紛れもなく力登の父親だ。

 今はそう見えなくても、成長と共に彼に似てくるだろう。

 私は、力登を守る為に離婚し、また戻ってきた。

 私の臆病さ故、だ。

 食事の後でお風呂に入り、穏やかな寝息を立てる息子を眺めながら、私は自分のすべきことを考えていた。

 広い邸宅の端の部屋で、静かだ。

 だからこそ、パッタパッタと近づいてくるスリッパの音にすぐに気が付いた。

 癖のある足音は、登さんだ。

 私は静かにベッドを抜け出し、急いで部屋を出た。 

「ご主人様の出迎えくらい、しろよ」

 三歩分の距離で漂うアルコール臭。

「おかえり……なさい」
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