偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
3.偽装の距離



「失礼ですが、恋愛結婚ですか?」

 俺はティッシュで力登の涎を拭きながら、聞いた。

 如月さんはキッチンでお好み焼きを焼いている。

 その姿は見えない。

「今はあんな風になってしまいましたけど、以前はすごく優しい人だったんです。私より四歳年上で、すごく落ち着きがあって、レディーファーストで、頼れる人だったんです」

 想像できない、こともなかった。

 パッと見た感じはとても穏やかそうで、気性が荒い人間には見えなかったから。

 だが、人は見かけによらない。

 事実、あの男は女性相手に怒鳴り散らし、肩を掴み、ドアを叩いた。

「でも、結婚には……、父親になるには向いてなかったようです」

「力登……くんとは会っていないんですか?」

「ええ。あんなこと言ってましたけど、本心で望んではいないんです」

「何を?」

「父親であることを」

 彼女の言葉を聞きながら、俺は無条件で愛されるべき汚れのない寝顔に触れた。

 親指の腹で、頬にそっと。

『子供が生まれてみて初めて知ったわ。あんな男だったなんて!』

 もう十五年も前の、悲鳴に似た姉の声。

 父親に不適合な男は一定数いるものだ。もちろん、母親に不適合な女も。

 だが、そう思っているだけの人間もいれば、そう思っていなかったのにそうだった人間もいる。

 自覚があるならまだいい。

 親になる危険を回避できる。

 だが、親になってみて初めて知るとなると厄介だ。

 姉の元夫のように。

 如月さんの元夫もそうだったのだろうか。

 俺は立ち上がり、キッチンに近づいた。

 本来ならばダイニングテーブルが置いてあるであろうカウンター前に立つ。

「如月さん」

「はい」

「どうして子供がいることを隠しているんですか?」

 普通は、真っ先に周知されるべきことだ。

 知らされていれば、秘書課内で特別待遇の理由を噂されることもなかったろう。

「ちっぽけな意地です」

「意地?」

「はい。小さな子供がいる、年老いた親の介護をしている、って言うと皆さん、短時間勤務も仕方がない、遅刻早退欠勤も仕方がない、って言ってくださるんですけど、必ずしも皆さんがそう思ってくださるわけではありません」

 ピッと電子音がして、如月さんがキッチンの奥から顔を出した。

 カウンター越しに向き合う。

「言い方が悪いですね。皆さん、思ってはくれるんです。でも、納得しているわけじゃない。育児や介護を理由に仕事が疎かになると、どうしても誰かの負担が増える。それを『仕方がない』と割り切れる人はそう多くはいないと思います」

 言っている意味はわかる。

 仕方がないことを仕方がないと受け入れるのは、案外難しい。何においても、だ。

 好きな人に好かれないけど、仕方がない。

 欲しいものを手に入れられないけど、仕方がない。

 やりたい仕事ができないけど、仕方がない。

 結局は、諦めだ。

 でも、諦めることができないから、足掻く。苦しむ。努力する。

 それすらできない人間は、逆恨みする。

 如月さんが言っているのは、仕方がないと言いつつも、負担を強いられた人間の不満が消化されるわけではないということだ。

「同じひとり親の女性でもよくあります。私だって一人で子育てしたけれど、あなたほど休まなかったし、あなたほど迷惑をかけなかった、とか。職場に迷惑をかけるくらいなら、育児に専念した方がいいんじゃないか、とも。ひとり親なら、そんな金銭的余裕がないことくらいわかるでしょうに」

「そう……言われたことが?」
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