ファーレンハイト/Fahrenheit

#02 敵意と希望

 午前七時四十六分

 優衣香のマンションを出て始発に乗り、着替えを取りに官舎へ寄ってから捜査員用のマンションに戻って来た。
 リビングのテーブルでは加藤、相澤、葉梨、本城の四人は事務処理をしている。
 コートを脱いでハンガーに掛けていると加藤が俺の服を見ている事に気づいた。

「ん? どうかした?」
「そのTシャツ……」

 このTシャツは優衣香が俺に買ってくれたものだ。下に白い長袖Tシャツを着ている。
 黄色い看板のマッチョしかいないジムで数量限定販売されたもので、マッチョしかいないジムのサークルロゴはあまり目立たない黒いTシャツだ。ロゴが浮かび上がったデザインでカッコいいから俺はウッキウキだ。優衣香には部屋着にしろと言われたが、ウッキウキで着て来た。だからこちらを見ている加藤にだけ見えるよう、俺は片目を瞑り、小指を立てた。

「んふっ」
「なんだよ、笑うなよ」
「すいま……んふっ」

 加藤が笑い出して他の捜査員も俺を見たが、相澤が俺のTシャツを見て、「あっ」と言った。
 相澤は、優衣香がマッチョしかいないジムに通っていると知っていた。だからこのTシャツは優衣香が買ったものだと気づいたのだと思ったが、想定外の事を言った。

「加藤も同じの持って……」
「んふっ……」
「……え、加藤と俺、ペアルックなの?」
「あー、いえ、あの……違います」
「ん? 何よ?」

 加藤も相澤も俺の顔つきを見て、昨夜何があったのか察しているのだろう。何も言わないので俺が何度か聞くと、相澤は着ているウインドブレーカーのファスナーを開けた。

「……ペアルックだ」
「うれしいですね」

 相澤は抑揚のない声でそう言うが、元々は加藤のTシャツだと言っていた。

「加藤は何でこれ持ってんの?」
「買ったからです」
「どこで?」
「ジムです」

 ――もしかして奈緒ちゃんもマッチョ会員なの?

「マッチョしかいないジムに通ってんの?」
「いけませんか?」
「いけなくないです」

 ――どうしてぼくのまわりには強い女の子しかいないのかな。

「そのジムにいる男性って、筋肉かプロテインの話しかしないので気が楽なんですよ」

 ――プロテインの話もするんだ。

 せっかく優衣香が俺に選んでくれたTシャツは優衣香とペアルックだったのに、相澤ともペアルックになってちょっと悲しいけど、まあ相澤となら良いかと思っていたら葉梨が声を掛けてきた。

「俺も同じの持ってます」

 ――なにさ! マッチョのバカ! ぼくが何したって言うんだ!

「……じゃあ、みんなでペアルックって事で」

 そう言ってそれぞれの顔を見ていると、本城が声を掛けてきた。

「俺、前に販売した分を持ってて、くたびれてきたから部屋着にしてます」

 ――本城昇太、お前がくたびれるがよい。

 なんだろうか、この胸にこみ上げて来る感情は。
 俺は優衣香からTシャツを貰ってウッキウキだったのに。優衣香とペアルックでウッキウキだったのに。Tシャツに頬ずりして優衣香に若干引かれたけどウッキウキだったのに。

 マッチョしかいないジムで売ってるTシャツだから誰かしらと被る事はある。だが、同僚とここまで被るのは奇跡なのではないだろうか。

「あの、松永さん、ペアルックって言葉、古いですよ」
「えっ、そうなの?」

 言い出した加藤以外の三人の顔を見ると、『ハハッ、知ってるよ、そんな事、当たり前じゃないか』という顔をしているが、目が泳いでいる。

 ――君たちは警察官なのに、それじゃだめだと思うよ?

「今は何て言うの?」
「リンクコーデとかお揃いコーデですね」

 また三人の顔を見ると、『ハハッ、知ってるよ、そんな事、当たり前じゃないか』の顔をしたままのつもりなのだろうが、実際にはマニアックな特別法の存在を知った時の顔をしている。

 ――あれって、何とも言えない気持ちになるよね。

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