ファーレンハイト/Fahrenheit

#02 あなたのために

 十一月十七日 午前十一時三分

 人の少ない住宅街で見上げる空は透き通るように青くて、吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。頬に当たる風は冷たい。

 ――あの日もそうだった。

 結婚を反対した交際相手の母親を刺殺した上、家に火を付けた事件があった。
 今日はそのご遺族の元を訪ね、お線香を上げさせて頂く。年に一度、命日の前に行くようにしているが、昨年はどうしても命日前に都合がつかず十二月になってからの訪問だった。

 オートロックのエントランスを経てエレベーターで部屋へ行き、玄関のインターホンを押す。
 解錠を待っている間、ふと松永さんの事を思い出して、小さく溜め息をついた。
 このお住まいは被害者の一人娘であり、容疑者の交際相手だった女性の住むマンションだ。

 ◇

 約一年ぶりにお会いしたその女性は、以前より痩せたような気がする。頬が少しやつれて、手首の尺骨が以前より目立つ。礼服のワンピースの上に白いカーディガンを羽織っているが、ワンピースの中の身体は泳いでいる。

 お仏壇のある部屋に案内され、お線香を上げさせて頂く。遺影の写真を変えたようだ。夫に寄り添って優しく微笑んでいる写真に変わっていた。
 俺にとっての年に一度のこの日は、事件と共に警察官になって一番怖かった事を思い出す日でもある。

 傍らに正座する女性はいつも座布団を当てない。俺は仏壇の座布団から下りて頭を下げた。この後は本来であれば被害者のお話やご遺族様の近況をお話をするが、今日は違う話をしなければならない。

「笹倉さん、今日は個人的なお話があります」

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