白薔薇園の憂鬱

第2話

 卓己の腕が、私の体を抱きかかえる。
ドスンという衝撃と共に、私たちは下の階へ落ちていた。

「痛たたた」

 落ちた先には、わらが山のように積まれていた。
落とし穴だ。
三階の床がぱっくりと開くようになっている。

「ちょ、大丈夫!?」

 千鶴が不安そうにそこから覗きこむ。

「だ、大丈夫よ」

 私はわらくずの中で起き上がった。

「わぁ。びっくりしたね」

 私の下敷きになっていた卓己も、もそりと動き出した。

「卓己、大丈夫?」
「う、うん」

 彼は私の下から自分の腕を引き抜くと、右手首を気にしている。

「痛ってー」
「ほ、本当に大丈夫?」
「うん。紗和ちゃんは、怪我してない?」
「平気」

 私が答えると、卓己はにこっと微笑んだ。

「そっか。よかった」

 卓己が助けてくれたんだ。
小さいころは誰かにいじめられて、いつも泣いていたのに。
それを私が見つけては、いじめる奴らを追い払っていた。
彼を守るのは私の役目だったのに、もうそんな必要もなくなっていたんだ。

「ん? どうしたの?」

 卓己の手が私の頬に触れ、口元の髪を払う。
高校に入る頃には背だって追い越されていたし、胸の厚みだって腕の力だって、今じゃ到底敵うわけもない。
私はいつの間にか、守る側から守られる立場に変わっていたんだ。

「ううん。なんでもない」

 卓己は落ちたわらの上で、自分の右手をさすっている。
私たちはもうこんなにも、違ってしまっている。
卓己が初めて、見知らぬ人に思えた。

「卓己!」

 千鶴が三階から飛び降りた。
ドスンという振動が、わらの上にいても伝わってくる。

「卓己、怪我は? 怪我してない!?」

 彼女はわらくずの中をまっすぐに卓己に近寄ると、その手をとった。

「大事な利き腕なのに! もっと大切にしてよ!」

 千鶴は卓己の右手首を丹念に調べあげると、それを両手で包み込む。

「デジタル作画でも、モデリングでも、卓己が実際に絵を描くことには変わらないのよ。そのためには動かせる手が必要なの」

 千鶴は本気で腹を立てていた。

「卓己を何だと思ってるの? 紗和ちゃんもアーティストの孫なんだったら、それくらいのこと分からない?」
「だ、大丈夫だよ。千鶴」

 黒く波打つ千鶴の髪に、卓己はそっと指を絡ませる。

「千鶴は大げさだなぁ。そんなこと心配しなくても、僕はちゃんと自分で守ってるから」

 卓己はニッと微笑むと、千鶴の前で右手首をぶらぶら揺らしてみせる。

「ほら、ね。平気でしょ」

 今度はその手を、私に向かって差し出した。
千鶴の言葉に、深くえぐり取られている自分がる。

「た、卓己はいまやもう、自分の事務所を持った独立したアーティストなんだから。自己管理も仕事のうちでしょ?」
「うん。紗和ちゃんの言う通りだよ、千鶴」

 まだ怒っている彼女を横目に、卓己はごそりとわらの山から体を浮かせる。

「紗和ちゃんも俺につかまって。ここから出る方法を考えよう」

 私は差し出されている卓己の右手から、目を反らした。
千鶴にあんなこと言われて、このまま甘えることなんて出来ない。

「この木の壁の、どっかが開くと思うんだよね」

 彼はさりげなく出した右手を下ろす。
千鶴はイラっとしたまま、卓己の背に隠れるようにしがみついた。

「きっとこの沢山のドアの中から、本物を探せって趣向なのよ」

 私はそんあ2人を残し、わらの山をかきわけ、三階に登る時に裏側を見た、木製の壁に向かった。
卓己は私が触れるよりも先に、その壁に触れる。

「これも多分リンドグレーンの作品だよね。子供たちのために作った。だとしたら、真ん中の大きなドアは違うと思うんだ。どんな仕掛けがしてあるんだろう。日記には書いてなかった?」
「そこまで見てない」

 千鶴はまだ卓己の右手を気にしている。
それを知っている卓己は、きっと痛む手をワザと普通に動かしている。
こんなところに来なければよかった。
卓己は丹念に大小の窓や扉の並ぶ木製の壁を調べている。
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