さよなら、妻だった私

01 妊活妻

 

『今日も仕事遅くなる、夕飯はいらない』

 メッセージが届いたのは、炊飯器のスイッチを押した後。
 鍋に入っている汁物はあとは味噌を溶かせば完成だ。肉と一緒に炒める為の野菜も切ってあるし、春雨サラダは冷蔵庫の中。

『わかった。連絡は五時頃までにしてくれると嬉しいな』とまで打ってから、全て消す。かわりに『OK』のスタンプだけ押した。

 エプロンを取って丸めて投げて、ソファになだれ込んだ。
 食欲はない、もう明日の昼ごはんにしてしまおう。今日はビールだけでいいや、春雨サラダくらいはつまもうか。

 どうせ宏斗が帰ってくるのは日付が変わる頃だろう。
 メッセージアプリ開いた、宏斗とのトーク画面を見る。

 ――うん、やっぱり送ってる。
 宏斗からメッセージが届く前に、私はハートのスタンプを送っていた。
 合図は丸無視で、遅くなる、だもんなあ。
 それについても言いたいことはあるのに、メッセージですらも言えない。



 ・・

 私と宏斗は新卒で入った広告代理店の同期だった。私たちは同じ部署に配属されたことで距離が近づき、付き合うようになった。
 宏斗は同期の中でも人気の明るい男で、今まで誰とも付き合ったことがない私にまさか告白してくれるだなんて思わなかった。自分の気持ちを言うのが苦手な私は、堂々とした宏斗に憧れていたから。

 二年付き合って結婚した。今から三年前のことだ。

 宏斗は子供好きで付き合ってる頃からずっと子供を欲しがっていた。野球が好きな彼は子供とキャッチボールをするというベタな夢を持っていて二十四歳という若さで結婚したのもその為だ。若いパパになりたかったのだ。

 しかし一年経っても、私たちは子供に恵まれなかった。

「なんで出来ないんだよ」

 結婚してから十回目の生理が来た時。いつもなら「お腹痛くない?」と私を優しく気遣ってくれる宏斗が冷たく私を見下ろした。

「身体、おかしいんじゃないか?病院いけよ」

 そう言った後、すぐにハッとした表情をした彼は私を抱きしめた。

「ごめん、俺何言ってんだ、焦っちゃって……。そうだ冬子、お腹大丈夫?本当にごめんね」

「ううん、病院は私も前から行こうとは思ってたから……」

「ありがとう、冬子。愛してるよ」

 一瞬恐怖で身がすくんだが、すぐにいつもの優しい宏斗に戻った。宏斗の気が焦るのもわかる。私も十回目はさすがに落ち込んでいたから。
 私は一度病院で検査をしてもらうことにした。


 ・・


 検査の結果、原因が見つかった。

 多嚢胞性卵巣症候群だと診断されたのだ。エコーの結果、卵巣の中にいくつもの小さな卵胞が見つかった。

 女医からの簡単な説明によると、
 卵巣の中にいくつか卵胞が存在している。月に一度、卵胞は一つだけ選ばれ大きく成長し十分に成熟すると、卵胞から卵子が排出される。これを排卵といい妊娠するために必要なこと、だそうだ。

 しかし、私は卵胞が発育するのに時間がかかりすぎたり、大きくなりきらず排卵できなかったり。そんな理由で卵巣に小さいままの卵胞がいくつも残ってる状態だとわかったのだ。排卵障害の一つだ。

 確かに昔から生理不順であったけど、生理は遅れても来ていたし、こんな原因が隠れていたことに大きなショックを受けた。

「大丈夫ですよ、治療を行えば排卵は可能ですし、妊娠にも繋がります。不妊の原因は様々でそれだけが理由でないこともあります。この治療と並行して色々な検査をしてひとつずつの不安要素を消していきましょうね」

 優しく話しかけてくれる女医は続けて私がするべき治療の説明をしてくれた。

 1.薬を飲んで卵胞の成長を促すこと。
 2.きちんと成長しているか病院のエコーで確認する。
 3.卵胞の成長から排卵日を予想する。
 4.予想した排卵日付近にタイミングを取る。――つまり行為をする。
 5.きちんと排卵したか病院のエコーで確認する。
 6.生理が来てしまったら1からやり直しのため再来院。

 流れはとてもわかり易くうまくいきそうな気がしたが、心は全く晴れなかった。

 その日の夜、結果を報告した時の宏斗の目はあの日と同じだった。酷く冷たい目で見下されると喉がぎゅっとした。
 でもそれは一瞬のことで、次の瞬間には私を抱きしめて「頑張ってな」と優しく言った。


 ・・

 それからの治療は簡単ではなかった。

 病院でのエコーは精神的にも、痛み的にも辛かった。
 下半身は何も履かない姿で、足が自動で開かれる椅子に座り、誰にも見られたくないところを明るい場所で見られるのだ。エコーの器具の異物感は痛いし、気持ち悪い。

 私にとっての一番の問題は定期的な通院だった。
「まだ育っていないので三日後に見せに来てください」を繰り返されて、妊活初月で私は午前休や休暇を五回も使ってしまっていた。
 体調が悪いと理由をつけて今月は乗り切ったが、毎月同じことは出来ない。あまりにも私が休むから、隣の席のママさん社員が「ねえもしかして悪阻?」と聞いてきた。私は「違いますよ」と曖昧に笑うしかなかった。


 無情にも初めてのチャレンジは失敗に終わり、私は宏斗に今後を相談した。

「じゃあ、仕事やめればいいんじゃない?」
 夕飯を食べながら宏斗は気軽と答えた。

「そんな何も、」

「何も考えてないわけじゃないよ。元々子供が出来たら冬子には仕事を辞めてもらいたかったんだよ。子供のために家にいてほしいんだ。妊活するならきっとすぐに子供も出来るし、この機会だから辞めちゃいなよ」

「……でも、今やってる企画もあるしそんなすぐには辞められないよ。それにうちの会社は育休制度も整ってるし――」

「誰のせい?」

 また、あの目だった。今まで知らない宏斗の目。この目に見られると何も言えなくなってしまう。

「ね、頑張ってよ。俺たちのために」


 ・・

 私は結局会社を辞めた。ママさん社員が「やっぱり……!」というので、違いますよとまたしても否定するしかなかった。


 ちょうど同じ頃、宏斗は入社時から希望していたマスメディア部に異動になった。TVCMや交通広告の担当で、芸能人や大手の企業とも関わりのある花形部署だ。

「あ、俺この子とこないだ会ったんだよ!」
 バラエティ番組を見ながら、宏斗はご機嫌にビールを飲んだ。

「俺らのいた部署は地味だったよな、毎日数字の集計と分析ばっかりでさ……冬子はそれが好きだったけどな」


 私ちはウェブ広告部で、宏斗は営業、私は分析の仕事をしていた。
 確かに地味な仕事だ。それでも結果がすぐに数字に反映されるウェブ広告の仕事が私は好きだ。細かな文言や画像を変え続けると、確実に数字は上がっていく。


 でも、今は。

 毎日改善策を試せていた仕事と違って、排卵チャンスは月に一度。
 原因も明確にはわからないから、改善策もわからない。
 画面をクリックするだけでアクセス数や成約数を見れた仕事とは違って、クリニックで先生に機械を突っ込まれないとわからない。

 あれから三回失敗を迎えて、私は迷子になった気分だった。


 ・・

「ちゃんと排卵はしているんですけどね」

 四回目の失敗の後、女医は何枚かのエコー写真を見せながら説明した。

「これが排卵前の画像、ちゃんと丸く大きくなっています。それから数日後ちゃんとなくなっていますしね。タイミングもきちんと取っていたので一度他の検査もしてみましょうか?」

「他の検査?」

「ええ。フーナーテストというものをまず今月は試してみませんか?それからご主人の方の検査も。出来ればご主人も来院してほしいんですが」

「主人が、ですか……」

「男性は拒否反応を示される方も多いですからね、でもお二人の事なので話してみてください。こちら各種検査の案内です。それから人工授精に挑戦するのもいいかもしれません」

 女医は検査の紙と人工授精の案内も渡してくれた。
 人工授精とは、行為をしなくても精子を直接子宮に注入するものらしい。
「人工授精を三回程度やってみたら、体外受精なども視野に入れられた方がいいかもしれません。つまりステップアップ、ですね。こちらは高額ですし、各種検査をしてからをオススメします」

 先生の言葉は難しくて何もわからない。理解が及ばないまま私はその場では頷くのに精一杯だった。


 ・・

 想像していたことだけど、宏斗は露骨に嫌な顔をした。

「なんで俺が病院に?原因はわかってるだろ」

「排卵障害は改善されてきているから……ステップアップするためには一度検査を、って」

 私は病院でもらってきた紙を渡すが、宏斗はますます嫌な顔をした。

「うわ、高っ。ステップアップなんてしなくていいよ、無理無理」

「一度病院で詳しく先生が話してくださるから、」

「はあ〜。なんで冬子選んじゃったかな俺」

「えっ?」

「あー……とりあえず、冬子には病院のこと任せた!俺もタイミングは頑張るからさ!一緒にがんばろうな」

 宏斗は笑顔を作って立ち上がると、座ったままの私の肩をポンポンと叩いた。

「明日は早朝から撮影なんだ、寝るわ、おやすみ」

「あっ、宏斗……!」

 机の上には目をほとんど通してもらえなかった紙が散らばっている。
 でも、私が悪いんだ。私に原因があるから。

 ――なんで冬子選んじゃったかな。

 結婚が決まった時、夢だと思った。同期に「なんで宏斗と冬子?」と言われたりもした。選んでもらえたことが嬉しかった。

 私は紙を拾い集めながら、ぐっと涙をこらえた。
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