桜ふたたび 前編

《……恋でもしてる?》

ジェイは吹き出しかけたシャンパンをあわてて飲み込み、咳き込んだ。

《やだ、図星?》

狼狽してシャツの汚れを袖で拭うジェイに、クリスの方があわてた。

《驚いた。てっきり仕事が永遠の恋人だと思ってた》

この永久凍土のような心を、溶かした女がいるとは信じられない。
それも、まさか恋した相手に操を貫く律儀な男だったとは。意外を通り越して衝撃だ。

《逢ってみたいわ》

《誰に?》

《あなたの恋人。どんなひと? 私より美人?》

《君らしくもないな》

《あら、今までも気になっていたわ。シェリルもジュリアも。でも、あなたは誰にも恋をしていなかったもの》

実名を挙げられても平然としているくせに、さっきの狼狽えぶりは何だったのだろう。
クリスはつい意地悪な気分になった。

《その女性が、どんな手を使ってあなたを虜にしたのか知りたいわ。──容姿?》

と、クリスは髪をかき上げる。

《教養? 才能?》

女優らしく、いちいち大きな手振りをつける。

《財力?》

そして、にやりと笑って──

《それとも、セックス?》

ジェイは、フッと笑った。

クリスは芝居がかった仕草で指を立て、ピストルを撃つ真似をしながら、

《正直に答えるまで帰さないわよ》

口調はおどけていても、視線は、真剣だった。

《……ただ彼女といると安まる。そういう女》

クリスは絶句した。

まわりは敵ばかり、駆け引きと策謀の世界に生きる者にとって、心を許して寛げる存在とは最上級の惚気だ。
つまりは、ジェイの方が惚れたということか。

そんなことを嬉しそうに答えるなんて、遊んでいるくせに女心がわからぬ男。
〈愛情とセックスは別〉なんて台詞を聞いても、いつかは彼もこの想いに気づくと思っていたのに。そんな秘めた期待も希望も、あっさりと打ち消してくれた。

《何だかしらけちゃった》

言いながら、クリスは立ち上がった。
そして、くるりを背中を向け、

《愛しい彼に電話するから、帰っていいわよ》

さっさと寝室へ引き上げて行く。

女から誘って断られた以上、恥の上塗りはしたくない。──クリスは潔い女だ。

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