桜ふたたび 前編
〈電話を待っていたのに〉
拗ねた声に、胸がきゅんとなる。
「ごめんなさい。寝てしまって……」
〈無事に帰ったのならいいんだ。疲れたんだろう? 起こして悪かった〉
──逢いたい。
思わず零れそうになる言葉を、澪はすんでのところで飲み込んだ。
〈来週からFrankhurt だけど、月末にはNew Yorkへ戻る。手続きのことは柏木に頼んだから、New Yorkで会おう〉
言わねばならない言葉が、どうしても発せない。
口にした瞬間、すべてが終わってしまうから。
〈ぐずぐずしていると、また拉致するぞ〉
京都から澪を連れ出したことを引き合いにして、ジェイは悪戯っぽく笑った。
〈澪、愛してる。ゆっくりおやすみ〉
スマホ画面が光を失い、再びあたりが闇に覆わる。
それでも澪は、ぼんやりと手の中の画面を見つめ続けていた。
──逢いたい。今すぐにでも彼の元へ飛んでゆきたい。こんなひとり取り残されたような夜はいや。
いつでもブレーキをかけられるはずだった。
なのに、恋しさが止められない。
もうなにもかもが一杯一杯だ。
澪は、堤防の決壊を防ぐかのように、両手で顔を覆った。
──だって、無理だもの。
ジェイとは、住む世界が違いすぎる。
感情に流されるまま飛び込めば、彼の世界の均衡が崩れて、歪みやひずみを生じさせてしまう。
澪の覚束ない足では、彼は歩みを止めてしまう。
彼の歩みに合わせたくても、歩幅も歩速も脚力も違いすぎて追いつけない。
歩数を増やしたところで、いつか息切れして、迷惑をかけることは目に見えている。
澪は肩でひとつ息をつき、部屋の明かりを点けた。
振り返ると、惨めな顔をした女が、硝子窓の向こうで見つめ返していた。