桜ふたたび 前編
「それ、榊さんのですか?」
設計机からカワウソのような顔を上げたのは、CAD室のもう一人、桑原だ。
部署ごとに観葉植物の壁で仕切られ、さまざまなレイアウトが展開されているオフィスフロアは、ショールームとしての役割も担っている。
背面式にデスクが配置されたライトモダンな設計部のエリアでは、澪と同じ制服姿の粟野と萩尾が、クスクス笑いながらスマートフォンを覗き込んでいた。
週末の終業時刻が近づくなか、営業や建築士の多くはまだ外出中で、オフィス内にはやや気の緩んだ空気が漂っていた。
「苦手なんすよね、アノヒト。体も顔もごつくて声でかいのに、注文だけは細こうて」
学生気分が抜けきれない桑原は、鉛筆を指先で回しながら、ふてくされたように愚痴る。
澪は小さくイヤイヤをした。粟野の耳に入ったら、SNSのネタにされかねない。
「アノヒトがおると室温が1℃は上がるって、みんなが言うてるのわかりますわ」
「佐倉さん!」
何事かと注目が集まる中、ブリテッシュスタイルのスーツを着こなした男が、難儀顔を浮かべて足早に近づいてくる。
桂創士。
目と眉が離れた下ぶくれの高貴な顔立ちから〈麻呂〉の渾名をもつ彼は、有名建築家である社長の息子であり、彼自身も構造設計部のエースだ。さらに独身とくれば、言わずもがな女子社員の人気は絶大だった。
「6時からのプレゼンで使うAビルのアイソメ──」
言いながら、性急に設計机に図面を広げる桂に、澪はあわてて歩み寄った。
「ここ、急遽Dプランの方に変更になったんや。今からいける?」
澪は図面を確認して、
「はい、データは残していますから、30分ほどお時間をいただければご用意できると思います」
「助かる。ちょっと残業になるけど、今度お礼するから」
思いがけない言葉に、澪は驚いた顔を上げた。