忘れられないよ君は―初恋だけでは終われない―

3.秘密を話せる人

大学見学へ行ってから、数日が経った。

 亜美はいつもより少し早く塾へ来ていた。

 夏期講習が始まった塾内は、普段より人が多い。

 廊下を行き交う生徒の声。

 講師に質問する声。

 自習室から聞こえてくる、紙をめくる音。

 亜美はいつもの席に鞄を置き、参考書を開いた。

 シャープペンシルを持つ。

 問題文を読む。

 もう一度読む。

「…………」

 何も頭に入ってこない。

 気づけば、同じ一行を何度も目で追っていた。

 最近ずっと、こんな調子だった。

 少しでも気を抜くと、思い出してしまう。

 黒いキーボード。

 鍵盤の上を動く、長い指。

 繊細で、時々荒々しい音。

『今日から君だけが知ってる秘密な』

 そして最後に。

『じゃ、またな。亜美ちゃん』

「……」

 亜美はシャープペンシルを置いた。

 両手で頬を押さえる。

 熱い気がする。

 けれど、どうして熱くなるのかは分からない。

 ただ名前を呼ばれただけなのに。

 何度も呼ばれてきた自分の名前なのに。

 あの声で呼ばれたときのことだけは、何度も思い出してしまう。

 ――なんなんだろう。

 大学が気に入ったから?

 キーボードの音色が綺麗だったから?

 秘密を教えてもらったから?

 それとも。

「亜美」

「……っ」

 突然名前を呼ばれ、亜美の肩が跳ねた。

「なに、その反応」

 顔を上げる。

 丈が立っていた。

「先生」

「うん」

「びっくりした」

「こっちがびっくりしたよ」

 丈が机の上を見る。

「何してるの?」

「勉強」

「してないだろ」

「してました」

「さっきから同じところ見てるけど」

「……見てたんですか?」

「通るたびに目に入るから」

 丈が呆れたように笑う。

「また考え事?」

 その言葉に、亜美は少しだけ黙った。

「……はい」

「勉強以外の?」

「はい」

「堂々と言うなあ」

「嘘ついても先生にばれるから」

「それはそう」

「認めるんだ」

「亜美、分かりやすいから」

「分かりにくいって言われます」

「他の人にはね」

 何気なく返された言葉に、亜美は丈を見る。

「先生には分かるの?」

「まあ、それなりに」

「なんで?」

「長いこと話してるからじゃない?」

「……そっか」

 それなら納得できる。

 丈とは、いろいろな話をしてきた。

 学校のこと。

 家のこと。

 友達のこと。

 勉強のこと。

 今日食べたものみたいな、どうでもいいことまで。

 自分でも忘れていることを、丈が覚えていることもある。

 亜美にとって丈と話すことは、いつの間にか当たり前になっていた。

「で?」

「え?」

「今日は何考えてたの?」

「……言わなきゃダメですか?」

「別に」

 丈はあっさり答えた。

「言いたくないなら聞かないよ」

「…………」

 そう言われると、逆に話したくなる。

 亜美はシャープペンシルを指先で転がした。

「先生」

「ん?」

「この前、大学見学に行ったんです」

「へえ」

「お兄ちゃんの大学」

「誠星大だっけ?」

 亜美が顔を上げる。

「覚えてたんですか?」

「前に聞いたから」

「私、言ったこと覚えてない」

「亜美は自分が喋ったこと忘れすぎ」

「先生が覚えすぎなんです」

「そう?」

「そうです」

 そう言いながら、少しだけ嬉しかった。

 自分では大したことだと思っていなかった話まで、丈は覚えている。

「で、どうだった?」

「広かったです」

「大学見学の感想がそれ?」

「お兄ちゃんにも同じこと言われました」

「だろうね」

「あと、自由でした」

「自由?」

「高校と全然違って」

 亜美は、あの日見た景色を思い出す。

 制服ではない人たち。

 好きな服を着て、友達と笑いながら歩く大学生。

 誰も自分を知らない場所。

「みんな好きな服着て、好きなところ歩いてて」

「うん」

「誰も私のこと知らなくて」

 そこで言葉が止まった。

 丈は何も言わない。

 ただ続きを待っている。

「……ちょっと楽でした」

「そっか」

 それだけだった。

 どうして、と聞かない。

 学校で何かあったの、とも聞かない。

 学校には友達がいないことを、丈は知っている。

 それでも無理に聞き出そうとはしない。

 亜美が話したければ聞く。

 話したくなければ、待ってくれる。

 その距離が、亜美には心地よかった。

「それでね」

「うん」

 亜美の声が、ほんの少し弾んだ。

「軽音サークルにも行ったんです」

「兄貴の?」

「はい」

「へえ。どうだった?」

「お兄ちゃん、途中で大学の先生に呼ばれちゃって」

「また頼まれ事?」

「そう」

「亜美の話聞いてると、ほんと断れない人なんだな」

「そうなんです。だから私、一人で部室まで行ったの」

「迷わなかった?」

「……ちょっとだけ」

「やっぱり」

「ちゃんと着きました」

「偉い偉い」

「子供扱いしないでください」

 丈が笑う。

 亜美も少し笑った。

「それで……」

 言葉にしようとすると、不思議と胸が落ち着かなくなる。

「部室に、先輩がいたんです」

「先輩?」

「はい」

「男?」

「男の人」

 丈は何気なく聞いただけだった。

 けれど。

 亜美の表情が少しだけ変わったことに気づいた。

 いつもより柔らかい。

「何してたの?」

「キーボード弾いてました」

「へえ」

「すごく綺麗だった」

 思い出しただけで、あの音が耳の奥に蘇る。

 亜美の口元が自然に緩んだ。

「最初はすごく繊細なのに、途中からちょっと荒々しくなって。それなのに、またすぐ優しくなって……」

「ずいぶんちゃんと聴いたんだね」

「だって、すごかったから」

「亜美、ピアノ好きだもんな」

「うん」

 丈は何気なく相槌を打ちながら、亜美を見ていた。

 こんな顔をするんだ。

 そう思った。

 亜美はもともと表情が大きく変わる方ではない。

 笑うことはある。

 拗ねることもある。

 けれど今の亜美は、そのどれとも少し違った。

 思い出しているだけで嬉しそうだった。

「それでね」

「うん」

「クラシックも弾いてくれたんです」

「クラシック?」

「はい」

「キーボードの人が?」

「そう」

 丈は少しだけ意外に思った。

「へえ」

「すごく上手だった」

「そんなに?」

「うん。もっと聴きたいって思った」

 亜美は何度も話したくなる。

 あの音のことを。

 幸也のことを。

 誰かに聞いてほしかった。

 特に、丈には。

「それで――」

 言いかけて。

 亜美は止まった。

『今日から君だけが知ってる秘密な』

 あの言葉を思い出す。

「どうした?」

「……言えないこともあります」

「急に?」

「秘密だから」

「その先輩との?」

「……はい」

 丈の目が、ほんのわずかに細くなった。

 けれど声はいつもと変わらない。

「じゃあ言わない方がいいよ」

「でも」

「ん?」

「先生になら、言ってもいい気がする」

「ダメだろ」

「先生、誰にも言わないでしょ?」

「言わないけど、そういう問題じゃない」

「……そっか」

「その人と約束したなら守らないと」

「うん」

 亜美は少し考えてから頷いた。

「じゃあ、言わない」

「それがいい」

「でも先生は別なのに」

「何が?」

「先生には、なんでも話してるから」

 何気ない一言だった。

 丈の表情が、ほんの一瞬だけ止まる。

「……なんでも?」

「うん」

「そんなに?」

「学校のことも、お兄ちゃんのことも、進路のことも」

 亜美は指を折る。

「くだらないこともいっぱい」

「それは知ってる」

「だから先生に言うのって、誰かに言うのと違う気がする」

「すごい理屈だね」

「ダメ?」

「ダメ」

「先生なのに?」

「先生だから何でも話していいわけじゃないよ」

「……じゃあ秘密にする」

「そうしな」

 丈は笑った。

 亜美も納得したように頷く。

 それでも丈の胸には、妙な引っかかりが残った。

 自分にはなんでも話すと言った亜美が。

 話さなかった。

 誰かとの約束を守るために。

 それは当然のことだった。

 むしろ、丈自身がそうするように言った。

 なのに。

 なぜか少しだけ、面白くなかった。
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