壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①

第十話 あなたと過ごす初めての夜



これは、シグリッドとアイリスが恋仲になって三ヶ月が過ぎた頃の事。

特別な関係になって会った数度の内に、二人は互いの名前を呼び捨てあうようになっていた。

遠慮(えんりょ)しあう仲じゃ無くなった訳だし、『さん』付けで呼び合うのは()めにしないか?』

彼からそう告げられて、何だか一度に距離が(ちぢ)まったような気がしたアイリスは、日々、彼とのやり取りを思い返しては、ぼんやりとする事が増えていた。

「はい!そうしましょう!シグリッドさ…いえ、シグリッド!きゃー!」

その時の事を脳内で再現しては、赤面して一人盛り上がるアイリス。
そんな彼女を、港町リジンの孤児院(こじいん)で共に暮らす少年少女達が、好奇(こうき)の目で見遣(みや)る。

アイリスを実の姉のように(した)っている少年リュークを筆頭(ひっとう)に、庭で遊んでいた幼い子供達は、妄想に(ふけ)るアイリスに(あき)れるばかりだった。

「アイリス姉ちゃん、またシグリッドの事考えて、にやにやしてんなー」
「ッ!」

振り返れば、リュークと数人の子供達が己を見て、にやにやしているのに気付いたアイリスは、益々顔を上気(じょうき)させた。

「や、やだ!あなた達、いつからそこにいたの!?」
「いや、ずっといたし。つーか、アイリス姉ちゃんが、ふらっとここへ出て来て、勝手に独り言始めたんだろー?」
「そうだよ、僕らずっとここで遊んでたよー?」
「アイリスおねーちゃん、ずっとシグリッドおにーちゃんの事ばーっかり言ってた!」

無意識のうちに声が漏れていたのだと、アイリスは両手で熱くなった己の頬を包み、苦笑いを浮かべた。

そんな姉を、一層(いっそう)呆れたように見遣るのは、この頃から(すで)に大人びた発言をしていたリュークで、彼は腕を組み(まゆ)(ひそ)めた。

「シグリッド、シグリッドーって何回もしつけぇんだよ!しつこい女は嫌われるぜ?」

その言い(ぐさ)を聞いて、子供相手に開き直ったアイリスは、興奮気味に声を上げる。

「そんな事言われたって仕方ないじゃない!お互いの名前を呼び捨てるどころか、先日なんて、()()無く私の事、『君』…じゃなくて、『お前』って…。やだもう!そんな言い方されたら独り言だって増えるわよー!当然よー!」
「アイリス姉ちゃんが異常なんだと思うけど」

またシグリッドとのやり取りを思い出しては赤面し、肩を(すく)めたアイリスが恥ずかしそうに体を揺らす様を見て、リュークは大きく溜め息を吐いた。

子供達の冷ややかな視線を余所(よそ)に、アイリスは、会う度に、彼との距離が縮まっていく感覚を覚えながら、初めて実った恋を大切にしようと一人胸に(ちか)っていた。

(いま)だ盛大に妄想を繰り広げる姉に、ここで半眼を向けたリュークは、二人が良い雰囲気(ふんいき)になってからというもの、ずっと気になっていた事を問い掛ける。

「それで、どうなったの?」
「え?」
「だから、シグリッドとどこまでいったの?」

問い掛けられたアイリスは、何故そんな事を聞きたがるのかと目を瞬かせると、先日、彼に会った日の事を思い返しながら答えた。

「どこまで?ああ、先日は、少し離れた海岸へ連れて行って貰ったけれど…。そんな事聞いて、どうしたの?リューク」

やはり、姉に質問の意図は理解して貰えなかったと、リュークは肩を落とし、本日、何度目かの盛大な溜め息を吐き出した。

「アイリス姉ちゃんはさー、バカなの?」
「ふん、何とでも言いなさい、恋する乙女の胃袋は、とっても広いんだから」
「それを言うなら『(ふところ)が広い』だろ。だからバカなんだよー、姉ちゃんはー」
「もーう、この子ったら口ばっかり達者になって、一体何が言いたいのよ」
「オレが聞いてるどこまで?は、どこへ行ったかって事じゃねぇよ」
「えー?」

アイリスが(いぶか)しげな顔で首を(かたむ)けると、リュークは、姉にも理解できる言葉で話そうと、質問を改めた。

「シグリッドと、手は(つな)いだ?」
「え!?そ、それは、勿論(もちろん)…」
「じゃあ、『ちゅう』は?」
「ッ!?」

恋愛に対して免疫(めんえき)のないアイリスは、これは、(よわい)六歳の子供の口から出てはいけない言葉だと、慌てて声を上げる。

「な、なな、なに言ってるのリューク!子供がそんな事言っちゃいけません!」
「ちゅう、したの?してないの?」

恋の酸いも甘いも、まだ知らない(はず)のリュークの方が、落ち着いた様子で問い(ただ)すと、少年の強い語気(ごき)に押されたアイリスは、目を泳がせながら小さく答えた。

「そ、それはー……少しだけ…」
「オレが聞いてるのは、そういう事だよ。シグリッドと、どこまでやったのかって事ー!」

少年の質問の意図をはっきり理解したところで、ぼん、と音でも出そうな程、アイリスは顔を上気させた。
それを隠すようにして、彼女は両手で顔を覆うと、リュークに視線を合わせないままで声を上げる。

「な、何を言い出すのよ、リュークのおませさん!そんな事を大人に聞くのはおやめなさい!」
「ちゅう、の先は?」
「ふへッ!?」

まさかの質問に、顔を覆った両手指の隙間から少年を見遣るアイリスは、思わず妙な声を上げた。
そんな二人のやり取りを見ていた他の幼い子供達が、意味も分からずリュークに問い掛ける。

「リュークにーちゃん、『ちゅう』のさきってなーにー?」
「なーにー?おしえてー!」

(すが)るように問い掛けてくる子供達に、リュークは年長者として、後輩の疑問には答えてやろうと、得意気(とくいげ)な顔で口を開いた。

「ちゅう、の先はだな…」
「こら!リューク!」

もしや、本当にその先を知っていて口走るのではないかと心配になったアイリスは、彼が答えるのを阻止(そし)しようと、その口を(ふさ)ぐ為に身じろいだ。
しかし、リュークは、伸びて来た手を振り払い、姉が何をそんなに慌てているのかと怪訝(けげん)な顔をしつつ答える。

「『ちゅう』の先は、『ぎゅう』に決まってるだろ?『ぎゅう』の先は、『けっこん』らしいぜ?」
「へえー!」
「リュークにーちゃん、ものしりー」

幼い子供達から尊敬の眼差(まなざ)しを一手(いって)に受けるリュークは、得意げにふんぞり返った。

「そ、そうね…。確かに、『ぎゅう』だわ」

アイリスは、それに間違いはないと思いつつ、己の懸念(けねん)した言葉が少年から飛び出さなかった事に安堵(あんど)した。

人知れず胸を()で下ろしたアイリスを見上げ、リュークは、少し意地の悪い笑みを浮かべると、頭の後ろで手を組み、口を開いた。

「アイリス姉ちゃんの口ぶりから、まだ、『ちゅう』の先へは行ってねぇようだな!はやく先へ行かないと、他のボインで美人の姉ちゃんに、シグリッドの事取られちまうぞー」
「もう!生意気(なまいき)言わないの!」

リュークの子供らしからぬ発言に、(なか)()ねたような顔で声を上げるアイリス。

どちらが子供か分からないやり取りの後、リュークが幼子達を引き連れて鬼ごっこを始めると、彼らの様子をぼんやり見守りながら、アイリスは、少し不安げに肩を落とした。


―――――それから翌週の事。

(こう)ばし工房を訪れていたアイリスは、休暇で戻って来たシグリッドと、彼の祖母を交えて夕食を共にし、(しば)しの団欒(だんらん)を楽しんだが、その後、彼の自室で近況についてや、とりとめのない話をしながら過ごしていたアイリスは、どこか落ち着きが無かった。

そんな彼女の様子に違和感(いわかん)を覚えていたシグリッドが心配そうに問い掛ける。

「アイリス?どうした?具合いでも悪いのか?」
「え!?んーん、そんな事は…」
「?」

今日は、ある強い決意を胸にここへ来たアイリス。彼女のその決意が如何(いか)なるものかも知り得ないシグリッドは、壁掛(かべか)け時計を見上げると、彼女の落ち着きない理由が分かったような気がして口を開いた。

「ああ、もうこんな時間か。マデリア院長とマザーソーニャが心配するだろうから、そろそろ送って行こうか?」
「えッ!?」
「お前といると、あっという間に時間が過ぎちまって…遅くまで引き()めて悪かったよ」
「いえ!あの…」

絨毯《じゅうたん》の上に胡坐(あぐら)をかいて座っていたシグリッドはゆっくりと腰を上げ、彼女を送っていく準備をしようと、壁に掛けたコートに手を伸ばす。
それを見たアイリスは慌てて立ち上がると、彼の背を追って駆け寄り、肩を(すく)めて(うつむ)いた。

「あの…シグリッド…」
「ん?」

呼ばれて振り返ったシグリッドはコートを(まと)うと、何故だか耳を真っ赤にしているアイリスに気付いて見て目を(またた)かせる。

己が何か彼女を傷つけるような事でも言ってしまったかと、不安に思ったシグリッドが口を開こうとした所で、アイリスは上気(じょうき)した顔を上げ、上擦(うわず)った声で告げた。

「わ、私…私ね…」
「?」
「今日は…帰りたくない!」
「ッ!」
「迷惑…かな…」

帰りたくない。つまりは共に一夜を明かすという事に(ほか)ならず、恋仲となった今、そんな言葉を口に出されては、あらぬ期待を抱いてしまうシグリッドは、(つと)めて冷静さを保つよう、静かに呼吸をした。

「そんな…迷惑な訳、ないだろ?」

羞恥(しゅうち)からか目を合わせようとしないアイリスが(まゆ)を下げると、そんな彼女をいじらしく感じたシグリッドは(わず)かに頬を染め、抱き寄せるべきか否か、手をさ迷わせていた。

そんな彼の迷いを知ってか知らずか、アイリスは、自ら距離を詰め、シグリッドの胸に頬を寄せる。

「お、おい、アイリス」

手を繋ぐのも恥じらっていた(はず)の彼女が、どういう訳か今夜は積極的で、いつも心にゆとりのあるシグリッドが、今日ばかりは少々 困惑(こんわく)していた。
彼が、さ迷わせていた手をそっと彼女の背に回すと、アイリスは(わず)かに体を震わせた。

「私、あなたと釣り合うような美人でもないし、(かしこ)くもないし、自分でも嫌になるくらい鈍臭(どんくさ)くて、()()のない女だから、心配なの…」
「し、心配って?」
「きっと、シグリッドの周りには美人が多いと思って…だから…」

だから、誰かに取られてしまいそう。
そう最後まで口にはしなかったが、シグリッドは、その想いを察することが出来た。
彼女に、不安や(あせ)りが見えたシグリッドは、成程、アイリスが(みょう)に積極的なのは、そういう事だったのかと、困ったような笑みを浮かべる。

その想いに答えようと、シグリッドは、彼女の両肩をそっと(つか)み、少し離れて身を(かが)めると、アイリスと視線を合わせて微笑んだ。

「俺が、信用できない?」
「そ、そうじゃないわ!私が、あなたを幻滅《げんめつ》させてしまいそうで、怖いだけ」

アイリスはそう言うと、再び視線を外してしまった。

シグリッドは、(いま)だに真っ赤に染まったままの彼女の顔を見て、ふっと口許(くちもと)に弧を描くと、屈めた身を起こしてこう続けた。

「アイリス、お前は自分の魅力に気付いていないだけだよ。心配なのは、色んな意味で(むし)ろこっちの方だろ。こんな風に引っ付かれて…、俺の理性が飛んじまったらどうしてくれるんだ?」

冗談交じりにそう言ったシグリッドが頬を()くと、(いた)って真剣な瞳を彼にぶつけたアイリスが声を上げる。

「私…ッ!」
「へ?」

彼女の声が今日一番大きかったもので、シグリッドは驚き目を丸くすると、思わず間抜けな声を漏らした。
一方のアイリスは、これから告げようとしている事を思えば、羞恥(しゅうち)で瞳に涙を(にじ)ませる。

「私…そのつもりで、来たから…」
「え…そのつもりって…」

これは、最早、そういう事だろうと、シグリッドは、(がら)にもなく緊張した面持(おもも)ちで答えた。

「お前が帰りたくないって言うなら、俺もお前を帰さない。本当に、良いのか?アイリス」

真っ直ぐに見詰めあった二人。
少しの沈黙の後、アイリスは小さく(うなず)いた。



――――静寂が包む夜、カーテンの隙間から月明りの差し込む部屋に、熱くなった男女の甘い息遣いが静かに響いていた。

ベッド上で向き合って座るシグリッドとアイリスは、互いに素肌を曝け出し、(つの)る想いをぶつけるように(くちびる)を重ねる。
筋肉質な上体を(さら)したシグリッドがアイリスを抱き寄せると、彼の手はいよいよ、彼女の膨らみを隠す下着に触れた。

「ッ!」

すっと肩から落とされた(ひも)の感触に、僅か体を()ねたアイリスは、シグリッドから唇を引き、慌てて声を上げた。

「ま、待って…シグリッド、これを脱いだら、私、本当に裸になっちゃう…」
「そうだな、やめておこうか?」
「うう…」

シグリッドは、(おび)えたように(うつむ)いたアイリスに優しく微笑むと、僅かに距離を取って口を開いた。

無理強(むりじ)いはしない。お前が嫌がる事はしたくないからな」
「…」

覚悟を決めて来たのにと、情けない思いで胸の内を満たしていたアイリスは、太腿(ふともも)の上で拳をきゅっと(にぎ)り、項垂(うなだ)れて(まぶた)を閉じる。
彼女が勇気を振り絞ってくれようと、必死でいるのが痛いほど分かったシグリッドは、アイリスの頭にそっと手を伸ばし、優しく()でながら問い掛けた。

「怖いか?」

彼のその質問には、アイリスは()(さま)首を左右に振って否定した。

「んーん…シグリッドに触れられるのが怖いんじゃないの。貴方が前にお付き合いしていた人、きっと綺麗(きれい)な人でしょう?そんな人と比べられたら…私なんて…」

きっと元恋人よりも己は見劣(みおと)りしてしまう。

騎士団でも副団長という大切な役割を(にな)う彼。その地位や人望にも恵まれ、おまけに、無駄のない肢体(したい)に整った目鼻立ち。
最早、魅力しかない彼の事を思えば、間違いなく己はシグリッドに不釣り合いな女なのだと、アイリスは彼に幻滅される事だけを恐れていた。

そんな彼女の心の内を見透(みす)かしているかのように、シグリッドは微笑んで答えた。

「お前はさ、もっと自分に自信を持つべきだと思う」
「私に自信なんて…」
「さっきも言っただろ?アイリスは、自分の魅力に気付いていないだけだって。自分が思うよりも(はる)かに、お前は魅力的だよ」

そう言われ、顔を上げたアイリスは、シグリッドの真剣で、それでいて優しい瞳を見詰めると、彼が、嘘偽(きょぎ)()べたのではないと感じ、改めて決意を固める。

アイリスは、シグリッドの首に、少し震える腕を回して抱き着いた。

「アイリス」
「シグリッドに…私の全部、知って欲しい…」

そうして見詰めあった二人の(くちびる)は再び深く重なった。
シグリッドの手が優しく彼女の肌を(さら)していくと、ベッドにそっと押し倒したアイリスの姿を見て、彼は余裕の無さそうな声を漏らした。

綺麗(きれい)だ…アイリス」
「ん…は…恥ずかしい…から、あまり見ないで…」

(つい)に男性の前で(さら)け出してしまった全て。
アイリスが、あまりの羞恥(しゅうち)から顔を腕で覆うようにすると、そんな彼女の姿を見せられたシグリッドは、高鳴った胸の内で人知れず(つぶや)いた。

(おい、これ反則だろ。もう、余裕がねぇ…)

彼の武骨(ぶこつ)な指がアイリスの体に触れていくと、彼女の唇からは切なげな吐息が漏れた。
(たま)らずその唇に、己のそれを()みつくように重ねたシグリッドは、シーツに両手を着いて上体を起こすと、どこか悔しげに低い声を漏らした。

「あー…くそ…俺、馬鹿みてぇ…」
「シグリッド?」

眉間(みけん)(しわ)を寄せたシグリッドの顔を見て、アイリスは、己が何か可笑(おか)しな事でもしたのかと不安げに(まゆ)を下げた。しかし、シグリッドがそんな表情を浮かべたのは、彼女が想像しきれないものだった。

「なんか…()けた…」
「え?」
「過去に、お前と付き合ってたヤツも、こうしてお前を抱いていたのかと思うと、なんか妬けたんだよ。我ながら情けねぇ」

シグリッドは、アイリスを腕に抱いたこの感触を、己以外の誰かも味わったのかと思えば(わず)かな苛立(いらだ)ちを覚えてしまった。
それが、どれ程無意味な事かと己の中で自答(じとう)したシグリッドが、自嘲(じちょう)めいた笑みを浮かべる。

アイリスは、彼のその言葉を聞いて、ただただ目を(またた)かせるばかりだった。

「…」
「アイリス?」

何も言わないアイリスを見て、これは完全に引かれたと思ったシグリッドは、どう取り(つくろ)ったものかと、思案(しあん)しながら苦笑いを浮かべた。

「あー…いや、はは、今更、何言ってんだろうな、俺。元彼の事なんか言い出したりしてさ。ごめん、変な事言って…」

見知らぬ男の影に嫉妬(しっと)(あらわ)わにするなどらしくないと、情けなそうに苦笑いを浮かべたシグリッドが、言った事に後悔して頭を掻くと、アイリスは大きく首を左右に振って答えた。

「んーん、謝らないで!シグリッドの気持ち、すごく嬉しい…でもね…」
「うん?」
()く必要なんてないわ」

アイリスが、どこか困ったようにシグリッドを見詰めると、彼は、ふっと口許(くちもと)()を描いて答えた。

「そうだよな、今、お前と付き合って、お前の事を独占してるのは、俺だもんな」
「そうじゃなくて…」
「ん?」

アイリスは、言うべきか言わざるべきかと、悩みながら目を泳がせると、やはり言っておかなくてはと、相変わらず頬を染めたままシグリッドを見詰めた。
そして、肩を(すく)め、口許で両手を会わせると、恥ずかしそうに続けた。

「あのね…私、こういう事、した事ないの…」
「へ?」

目を瞬かせる彼を一瞥(いちべつ)し、その目を()らしたアイリスは、これを言ってしまうと、それこそ幻滅(げんめつ)されてしまわないかと恐れ、自信なさそうに小さな声音で続けた。

「シグリッドが、お付き合いした人、初めてなの…だから、私、この先どうしたら良いのか、よく分からなくて…」

ここで再び眉を下げたアイリスと、唖然(あぜん)とするシグリッドの瞳がぶつかる。
アイリスは、ここまで言ったのだから言うしかないと、情けなそうに告げた。

「シグリッドにお任せしてもいい?」
「…」

己が見ず知らずの男に妬いたのは本当に無意味だったのだと、シグリッドは、その喜びを理解し、アイリスの懇願(こんがん)するような瞳に答えた。

「お、お、(おお)せのままにーッ!」

と、叫んだシグリッドが、この後、更に余裕を無くして、彼女を優しく抱く事に、今までにない程必死だったのは言うまでもない。



――――二人が関係を持った翌日の事。

アイリスは孤児院のキッチンに立ち、子供達の昼食の準備をしながら、一人赤い顔を(ゆる)めていた。

「ああ…私、重症だわ。目を閉じると、あの人の顔ばかり浮かんで来る…」

頬に手を当てて、ほう、と、恋に(わずら)う切なげな息を吐くと、アイリスは昨夜の事を思い出した。

「昨夜も、今朝も…シグリッド…とても優しく微笑んでくれた。あの(たくま)しい腕に抱き締められると、とても幸せな気持ちになって…」


―――アイリス、お前の事を知る度に好きになる。もっと、もっと…お前を求めたくなる。


耳元で(ささや)くように言われたシグリッドの甘い言葉を思い出したアイリスは、悲鳴のような声を上げた。

「きゃー!シグリッドったら!えっちー!」

そんな彼女の姿を見つけた少年リュークが、また(あき)れたように息を吐き、半眼(はんめ)(つぶや)いた。

「アイリス姉ちゃん、また独り言がエスカレートしてる」

(よわい)六歳の少年に見られているとも知らず、アイリスはその後も一人、嬉しい悲鳴を上げた。



―――――― 一方、数日後。

ノアトーンに戻ったシグリッドも、騎士団の詰め所の庭で、同僚達にこう言われていた。

「シグリッド、お前、どうした?そのにやけ(づら)
「なんか良いことでもあったのか?」
「あ。さては、新しい彼女と進展があったな!コイツめ!」

いつも以上に鍛練に身が入るシグリッドを見て、からかわずにはいられない同僚達。

普段ならばこんな冷やかしなど、鬱陶(うっとう)しそうに返事をするだけのシグリッドなのだが、今日という日は、何を言われようとも、彼は上機嫌に答えられた。

「まあな!今の俺は、何者にも負ける気がしないぜ!いやー、守りたいものがあるって、本当に素晴らしいなッ!ふはははッ!ほれ!今日は一度に全員相手してやるッ!かかって来いッ!」

槍を身構え、気合い十分のシグリッドの表情は、まさに怖いもの無しと言った不敵(ふてき)なもので、それを見た同僚達は、うんざりした顔で答えた。

「うわー…久々に見たわ、シグリッドが(みなぎ)ってる姿」
「こうなると面倒くせぇんだよな」
「言えてる」

そんな悪態(あくたい)もなんのその。この後、訓練試合で同僚達を次々に打ち負かしていったシグリッドは、終始楽しげだった。

アイリスと結んだ(きずな)は、もっと固く結びついていく。この時からそう感じていたシグリッドが、己のその(かん)が当たっていたと知るのは、もう少し先の話し。
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