壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①

第十三話 愛する人に求めるもの



港町リジンから、西へ数キロ馬を走らせた先に、陽当たりの良い平野部を利用して、多くの果樹や作物を育てている農園、『アーセナル農園』がある。

天気の良い初春のある日、シグリッドは妻のアイリスを(ともな)い、祖母ジネットの代から付き合いがある、この農園を訪れていた。

数年前に、前農園主が不慮(ふりょ)の事故で亡くなってからは、息子夫婦がここを受け継いでおり、シグリッド本人も現農園主とは幼い頃からの友人で、今でも(こう)ばし工房(こうぼう)の商品で使う素材の多くを、この農園から仕入れていた。

「うん、甘くて美味しいー」

アーセナル農園でハウス栽培されている(いちご)を摘みに来たシグリッドとアイリス。
店舗で販売する手作りジャムに使用する為の苺なのだが、一口、二口と、それを摘まんでは口に放り込んでいく妻に、シグリッドは(あき)れて半眼(はんめ)を向けた。

「アイリス、お前、さっきから苺を摘むどころか、食ってばかりじゃないか」
「ふふ、味見のつもりが、ついー」
「つい、じゃないだろ?まったく…」

やれやれと溜め息を吐いたシグリッドの表情はどこか優しい。
そんな二人のやり取りに微笑みながら、苺の(なえ)が入った(かご)を抱えて、エプロン姿の青年が歩み寄って来た。

「ははは、相変わらず仲がいいね、シグリッドとアイリスさんは。僕もレスティーナと、いちゃいちゃしたいなー」

青年が甘い願望を口にしながら(わず)かに(ほお)を染めると、ハウスの入り口から、農婦服を着た体格の良い女性が呆れたように声を上げた。

「何言ってんだい、そんなこと、アタシは恥ずかしくてできないよ!」
「えー…レスティーナ、冷たいー」
「馬鹿言ってないで、オレンジ園の手入れを早くしておくれ!ガスパール」
「わかったよー。苺の苗を世話したら直ぐに行くから、先に行っててー」

軽く願望を打ち砕かれたガスパールが微苦笑(びくしょう)するのを余所(よそ)に、レスティーナは(さわ)やかな笑みを浮かべ、シグリッドとアイリスに手を振った。

「アンタ達!遠慮せず、たくさん摘んで帰りなよッ!」

これに、アイリス、シグリッドはそれぞれに手を振りながら順に答えた。

「ありがとうございます!レスティーナさん!」
「はは、やっぱ豪快だよな、レスティーナって。ガスパールが尻に敷かれる訳だ」

ガスパールとレスティーナ。二人こそが前農園主からここを受け継いだ夫婦で、まるで男女が逆転したような関係の二人は、周囲から鴛鴦(おしどり)夫婦と言われる程仲が良い。

レスティーナの背を見送ったガスパールは、シグリッド達と他愛(たあい)ない会話をしながら、持っていた苺の苗を植えて手入れすると、彼らに、ゆっくり苺摘みを楽しんで欲しいと告げて、妻の後を追い、オレンジ園の方へと向かった。

その後も農園主の言葉に甘え、苺摘みを楽しんだ二人。
アイリスは、バスケット一杯になった苺を見て満足そうに微笑むと、空の天辺(てっぺん)にいる太陽を見上げ目を細めた。

「ねえ、あなた、そろそろお昼にしましょう?」
「ああ、苺もこれだけあれば十分だろ」

シグリッドは(うなず)いて微笑むと、二人分のバスケットを手に持ち、妻と共にハウスの外にある一本の木陰へと向かった。

緑の絨毯(じゅうたん)の上にレジャーシートを敷き、アイリスが作って来たランチを食べながら景色を楽しむ。
そして、空腹を満たした後、(かす)かにそよぐ風に心地好さを感じながら、仰向(あおむ)けに寝転がったシグリッドとアイリスは、ゆっくり流れる雲を見て笑みを浮かべた。

「風がとっても気持ち良いわ」
「ああ、こうして横になってると眠ってしまいそうだ」
「ふふ、そうね」

睫毛(まつげ)を伏せ、頭の後ろで手を組んだシグリッドに、アイリスは小さく笑うと、夫に向けて体を転がした。
春とはいえ、じっとしていれば少し肌寒さを感じる季節。アイリスが肩を(すく)めて(わず)かに体を丸めると、それに気付いたシグリッドは目を開け、顔だけ横向けて妻と視線を合わせた。

「寒いのか?アイリス」
「んーん、大丈夫、こうすれば」

アイリスはそう言うと、シグリッドに体を寄せて抱き着いた。
そんな妻のいじらしい姿を見て、ふっと口許(くちもと)に弧を描いたシグリッドも、己の体を横向けて抱き合うように体制を変える。

「確かに、これなら温かい」
「ふふ…」

幸せそうに夫の胸に額を着けたアイリスが、その温かさに微睡(まどろ)み始めた頃、それは突如として起こった。

「うわぁああッ!レスティーナッ!レスティーナァアッ!」
「ッ!?」

オレンジ園の方から悲鳴が聞こえ、(けわ)しい顔付きになったシグリッドは咄嗟(とっさ)に上体を起こした。
続いて起き上がったアイリスも、この長閑(のどか)な農園には縁の無い不穏な空気を感じて(まゆ)を下げる。

「あなた、今の、ガスパールさんの声だわ」
「ああ、行ってみよう」

シグリッドは(そば)に置いていた愛槍(あいそう)を手に、アイリスを連れてオレンジ園へと急いだ。

葡萄(ぶどう)園のハウスを横切り、更に林檎(りんご)園の木々を横目に走り抜けたシグリッド達は、程無く、悲鳴が聞こえたオレンジ園に辿(たど)り着いた。
たわわに実ったオレンジをぶら下げた木々が整然と並ぶ中、そこで立ち止まったシグリッドは、不可解な現象を目に映し眉を(ひそ)める。

「これは…一体…」

土の上には、何かが引き()って出来たような(みぞ)があり、それに沿って木々が倒れている。
(みき)の中央は、まるで鋭い牙で(かじ)られたように破砕(はさい)しており、これは人の手で倒されたものではないと、シグリッドは一層(いっそう)顔を険しくさせた。

そこへ、少し遅れて追い付いたアイリスが、息を整えながら辺りを見回す。

「はあ…はあ…あなた、これ、どうなってるの?オレンジの木がぐちゃぐちゃだわ。なんて(ひど)い事を…」

そう言いながらアイリスが惨状(さんじょう)を痛んでいると、木々の向こうから巨大な影が、ぬっと姿を現したのをその目に(とら)え、悲鳴を上げた。

「きゃあッ!シ、シグッ!何なの、あれ!」
「!」

シグリッドが咄嗟(とっさ)に妻の視線の先を辿(たど)れば、そこには地面を二足で踏みしめた、蜥蜴(とかげ)のような魔物が長い尾を引き()って、オレンジの実を口に放り込む姿があった。

「あれは、イーブルリザードッ!オレンジ園を襲ったのはヤツか…」

幸い、魔物はまだこちらに気付いていない。
シグリッドが、このまま後ろから近付いて仕留めようと(やり)を握り締めたところで、次に、アイリスが、イーブルリザードの足元を指差して声を上げる。

「あなた!あそこに、ガスパールさんとレスティーナさんが!」

ぐったりと、仰向(あおむ)けに倒れたレスティーナの上体を抱き上げて、ガスパールは泣きながら悲鳴を上げている。
身動(みじろ)いだイーブルリザードが、いよいよ彼らに迫ろうとしているのを見て、シグリッドは妻にここで(とど)まるよう告げながらその場を駆け出した。

「アイリスは、そこでじっとしているんだ、いいねッ!」
「はい!」

不安げな顔で、祈るように手を(にぎ)ったアイリスに見送られ、シグリッドは、イーブルリザードの側面から攻撃を仕掛けようと木々の中を駆け抜けた。

「グォオオオンッ!」

雄叫(おたけ)びを上げた魔物がガスパール達に狙いを定め、大きく両手を振り上げると、ガスパールは、動かないレスティーナを(かば)って胸に強く抱き締めた。
そこへ、間近まで駆け付けたシグリッドは、体長三メートルは越える魔物を見上げて、こちらに注意を()らそうと叫んだ。

「ガスパールッ!そのまま動くなッ!」

彼が言われた通りに身を伏せたまま固く目を(つむ)る一方で、イーブルリザードは、瞳孔(どうこう)を細めた瞳で、ぎろり、とシグリッドを見遣(みや)った。
地を()り、間合いを詰めたシグリッドは、槍を横に払って初撃(しょげき)を加えると、一歩踏み込んで、続け様に何度も槍先を突き出した。

「ギャァアッ!」

身体中から鮮血を吹き出す魔物は悲鳴を上げ、暴れて腕を振り下ろすも、シグリッドはそれを(かわ)しながら攻め続ける。
イーブルリザードの拳が空を切って地面を割ると、地を蹴って飛び上がったシグリッドは体を(ひね)り、槍を大きく振りかぶった。
そして、彼の手から離れ、勢いよく飛んだ槍は一閃(いっせん)の尾を引いて、魔物の蟀谷(こめかみ)を貫いた。

「グギャァアアアッ!」

地面に槍が刺さった直後、耳を覆いたくなるような断末魔(だんまつま)を上げ、魔物は弾けて(はい)となる。
とん、と地面に着地したシグリッドは、()(さま)、槍を回収し、その安否を確かめようとガスパールの元へと駆け寄った。

「大丈夫か、ガスパールッ!」
「うん!僕は平気だよ!でも、レスティーナが!レスティーナが魔物の(つめ)でッ!」
「どれ、傷口を見せてくれ」

ガスパールの腕に抱かれたレスティーナの顔色は青白く、尋常(じんじょう)ではない発汗(はっかん)が見られる。
シグリッドは、その場に片膝(かたひざ)をついて身を(かが)めると、レスティーナの右腕に視線を落とした。

「これは…」

鋭利な刃で斬られたような傷痕(きずあと)は、黒く変色しつつあり、この事態を受け止めたシグリッドは眉間(みけん)(しわ)を寄せる。
そんな彼の横顔を見て、良くない事が起きているのだと理解したガスパールは、瞳に涙を浮かべ不安げに問い掛けた。

「シグリッド、レスティーナは?大丈夫なんだよね?」

問われたシグリッドは、ガスパールを一瞥(いちべつ)する間もなく、直ぐにレスティーナの傷口に顔を寄せると、(にご)った血液を吸い上げては吐き出すを繰り返した。

「イーブルリザードは、その爪や牙に毒性を持ってる。レスティーナの体内が毒で侵される前に解毒をした方がいい」
「そんな!レスティーナ…レスティーナ!」

最愛の妻が目を開けないのを見て、ガスパールは涙を(こぼ)しながら彼女に何度も呼び掛けた。
そんな夫の声が届いたのか、レスティーナは(うす)く目を開くと、口許(くちもと)に笑みを浮かべて小さく声を絞り出した。

「まったく…男のくせに、めそめそ泣いてんじゃないよ、ガスパール…」
「レスティーナ!ああ、良かった!気が付いたんだね!」
「このくらいの傷で、アタシが死ぬとでも思ったのかい?本当、情けない夫だよ」
「僕が弱いから…君を傷付けられたんだ。ごめんよ、レスティーナ!本当にごめんよ!」
「謝るな、アタシはアンタに強さなんて求めちゃいないんだから」

そう言ってレスティーナが夫に(うつろ)ろな瞳で微笑んだ、その時…

「あ、あなたーッ!助けてーッ!」
「ッ!」

シグリッドは顔を上げると、その目に悲鳴を上げながら駆けてくるアイリスの姿を映した。
更に、その妻の後ろからは、人間大のイーブルリザードが追って来ている。

「アイリスッ!」

シグリッドが槍を手に駆け出した直後、アイリスは地面から(のぞ)いた石に(つまづ)き転んでしまう。
その場から逃げ出そうと、地を()うようにして手を伸ばしたアイリスに、いよいよ魔物が飛びかかれば、シグリッドは体を回転させ再び槍を振りかぶった。
空を割いて飛んだ槍は、アイリスに迫っていたイーブルリザードの腹部を突き刺すと、そのまま木の(みき)()い付けるようにして突き立つ。
そして、魔物は声を上げる間もなく灰となり、霧散(むさん)して消えた。

余裕の無い表情で、シグリッドは急いで妻の元に駆け付けると、上体を起こしたアイリスの肩を(つか)み、無事を確かめるように顔を(のぞ)き込んだ。

「大丈夫か!アイリス!」
「ええ、私は平気よ、ありがとう、あなた」
「はあ…良かった、間に合って」

妻が微笑んだのを見て心底 安堵(あんど)したシグリッドは、強張(こわば)った表情を少し(ゆる)めると、今度は(まゆ)(ひそ)めて口を開いた。

「だから、じっとしてろって言ったんだ!何で動くかなー」

これには、反論せざるを得ないアイリスが声を上げる。

「私、じっとしていたの!していたら、あの魔物が突然出て来て!」
「突然?」
「そうよ!土が、ごばッ!てなって、そこから、ばーんッ!となって、がさがさッ!て、それでこうなったの!」
「は?なんだって?」

興奮冷めやらぬ妻のよく解らない説明に、困ったような笑みを浮かべたシグリッドが問い返した所で、またもガスパールの悲鳴が響いた。

「ああ、シグリッド!レスティーナが、また意識をッ!」

シグリッドは妻を(ともな)ってガスパールの元へ駆け付けると、苦し気に(うな)るレスティーナの姿を見て、険しい表情を浮かべた。

「直ぐにレスティーナの処置を始めよう。ガスパール、今から俺が言うものを急いで(そろ)えてくれ。この農園ならすぐに揃えられるものだよ。アイリスは鍋一杯に湯を」
「ええ、分かったわ!」

それぞれの役割を決めると、彼らはレスティーナを家へと運び込んだ。

指示した薬草や木の実をガスパールが揃えている間、シグリッドはいつも外出時には持参する、簡易的な処置道具を使い、(そば)に着いたアイリスの補助を受けながら、レスティーナの傷口の消毒と縫合(ほうごう)を行った。

「よし、傷口の処置は取り()えずこれで良いだろう」

そう言いながら、彼女の腕に包帯を巻き終えたシグリッドは、次いで、ガスパールが持ち帰った材料をすり鉢と()粉木(こぎ)(つぶ)し、薬液を作って行く。
額に(にじ)んだ汗を腕で拭《ぬぐ》うと、シグリッドは、出来た解毒薬を木製の(わん)(そそ)ぎ込み、ガスパールへと差し出した。

「ガスパール、後はコイツをゆっくり飲ませてやってくれ、残さず全部だぞ。それで体に回った毒素は中和されるだろう」

シグリッドの手際良さに感心と驚きを見せるガスパールは、差し出された器を受け取り(うなず)いた。

「分かった、ありがとう、シグリッド。さあ、レスティーナ、薬だよ」
「う、ん…」

ガスパールは、小さく(うめ)く妻の上体を腕に抱え、ゆっくりとレスティーナの口から解毒薬を飲ませてやった。
深緑の薬液は、見た目に反せず苦味と渋味(しぶみ)のある何とも言えない味で、時折むせかえるレスティーナに寄り添い、ガスパールは飲ませ続けた。
一向に回復の(きざ)しを見せないレスティーナの様子を見て、アイリスは不安げに胸元で手を(にぎ)る。

「レスティーナさん、とても苦しそう…」
「ああ、だが解毒薬を飲めば、数時間後には幾分(いくぶん)か楽になってる(はず)だよ」

シグリッドはそう答えると、気になっていた魔物の出現の方へ思考を変え、険しい表情を浮かべた。

「さて…問題は、あの魔物がどこから現れたかって事だな。経路を辿(たど)って元を(たた)かねぇと、また同じ事を繰り返すだろう。もう一度、オレンジ園へ行って手懸(てが)かりを探ってみるか…」
「あなた、私も行くわ!」

アイリスが真剣な顔でシグリッドを見上げれば、彼は険しい表情のまま答えた。

「お前はここにいろ、さっきみたいな怖い思いはしたくないだろ?」
「いいえ!あなたに何かあったらと、不安で待っている方が余程怖いわ!だから、一緒に連れて行って!」

強い瞳で見詰める妻が、こうなっては言う事を聞かないと理解していたシグリッドは、仕方なさそうに溜め息を吐いて(うなず)いた。

「やれやれ…分かったよ。少し様子を見るだけだ、問題はないだろう」

そうして、ガスパールにレスティーナを任せ、シグリッドとアイリスは、再びオレンジ園へと向けて出発する事となった。

途中、他の果実や木の実の園の様子を見ながら歩いたが、いつもの長閑(のどか)な風景が広がるばかりで、どこにも魔物の気配は無く異常も見受けられなかった。

――――― (しばら)くして、問題のオレンジ園へ辿《たど》り着いたシグリッドとアイリス。
それぞれの農地に設けられた巨大な貯水槽(ちょすいそう)の陰に身を(ひそ)めると、彼らは園の様子を静かに(うかが)った。

すると、どういう訳か、そこにはアイリスを襲った人間大のイーブルリザードの姿が無数にあり、それを見て思わず悲鳴を上げそうになった妻の口を手で(ふさ)いだシグリッドは、口許(くちもと)で人差し指を立てた。

「きゃ…んんッ」
「しッ!声を上げるな」

シグリッドに言われて何度も(うなず)いたアイリスが口許を解放されると、彼女は(おび)えた瞳でオレンジ園を見遣り、小さな声音で問い掛けた。

「あ、あなたー…さっきまで、あんなに沢山いなかったじゃない、一体どうなってるの?」
「…」

妻の言う通り、先程までオレンジ園にいたのは、最初にレスティーナを(おそ)った巨大な一匹と、アイリスを襲ったもう一匹だけだった(はず)なのだが、今は数十匹の魔物が木々を食い荒らしている。

これだけの数がいれば、いくら広い農園だからといって見逃す筈はない。

周囲の状況から見ても、どこかの経路を()んで現れたのではなく、まるで突然現れたような現象を目の前にして、シグリッドは、妻が言っていた言葉を思い出した。


―――土が、ごばッ!てなって、そこから、ばーんッ!となって、がさがさッ!て、それでこうなったの!


「アイリス、お前を襲った魔物は、突然出て来たと言ったな?あれは、土の中から現れたって事か?」
「え、ええ…まるで土竜(もぐら)みたいに…」

ある一つの可能性に気付いたシグリッドは、オレンジ園を徘徊(はいかい)する魔物に目を向けたまま口を開く。

「確かめたい事がある、アイリスはここにいろ、直ぐに戻るよ」
「え!?あーん!あなた!また私を置いていくつもりー!?」

アイリスをその場に残して、シグリッドは魔物に気付かれないよう木々の影に隠れながら、あるものを探した。

「ッ!」

そして、(ようや)く目当ての物を見付けたシグリッドは腰を落とすと、踏み荒らされた土の中から黒ずんだ(から)のようなものが(のぞ)いているのを見て(つぶや)いた。

「これは…やはり…」

シグリッドは、予測していた事を確信に変えると、周囲を警戒しつつ、その場を離れた。



――――その後、アイリスと共に、ガスパールの家へ戻ったシグリッドは、オレンジ園の現状を彼に話して聞かせた。

「恐らくは、レスティーナを(おそ)ったイーブルリザードが、オレンジ園の地中に卵を産み付けたんだろう。それが孵化(ふか)し、生まれた魔物の子供達は今、園の木々を食って占拠(せんきょ)している。どの魔物にも共通した事だが、ヤツらは産まれて直ぐに、肉だろうが木の実だろうが手当たり次第食い物に手を出して成長を求めるんだ。この作物が豊富な地を選んだのは、子の成長を(うなが)す為だろう」

シグリッドからそれを聞いたガスパールは、何か心当たりでもあるのか、青ざめた様子で答えた。

「そ、そんな…レスティーナの言っていたあれは…本当だったんだ…」
「うん?どういう意味だ?ガスパール」
「それがね…一週間前の真夜中、レスティーナがオレンジ園の方向に大きな影を見たって気持ち悪がってたんだけど…」

妻からそれを聞いていたガスパールは、念の為にと毎夜、オレンジ園に目を向けてはいたが、特に変わった様子もなく、何かの見間違いだったのだろうと、用心もせずにいた事を明かす。
レスティーナが巨大な影を見た日がまさに産卵の日だったのだろうと、シグリッドは納得したように(うなず)き、腕を組んだ。

「あのデカブツ、孵化(ふか)する卵の様子を見に戻って来たんだろうな」

苦しむ妻の姿を悲痛な瞳で見詰めたガスパールは、悔しげに頭を抱えた。

「レスティーナが、あの夜言った事を、ちゃんと僕が気にしていれば、こんな事にはなって無かったんだ!ねえ、シグリッド!僕はどうしたらいいかな?レスティーナがこんな風になっちゃって、僕、もう、何をどうしていいか分からないよ!」

取り乱すガスパールを(なだ)めようと、アイリスが彼の背を()でてやる。
レスティーナの(そば)で泣き(くず)れるガスパールを一瞥(いちべつ)し、アイリスは不安げにシグリッドを見上げた。

「あなた…」

シグリッドは妻に小さく(うなず)くと、少し躊躇(ためら)ったように口を開いた。

「ガスパール、魔物だけを取り除く方法も勿論あるが、残念な話し、オレンジ園の木は再生が難しいと思う。イーブルリザードの爪や牙には毒があって、食い荒らした木々にも恐らく毒を回しているだろう。放っておけば、毒は根を伝って土壌(どじょう)ごと(くさ)らせてしまう。例え、魔物だけ散らしても、オレンジ園は…」

前農園主から受け継ぎ、どの作物にも同じように愛情を注いで育てて来たガスパールとレスティーナの努力を知るシグリッドは、悲痛な瞳で(うつむ)く。
そんな彼の心情を察したのか、ガスパールは顔を上げて答えた。

「良いんだよ、シグリッド!オレンジ園の木々の事は構わない!これ以上、レスティーナを傷付けようとする何かがそこにいるのは許せないんだッ!それに、放っておいたら、他の農園も荒らされてしまうでしょう?オレンジ園の中で(とど)まってる今なら、まだ被害の拡大を(おさ)えられるという事だよね?」
「…」

問われたシグリッドが静かに(うなず)くと、ガスパールは悔しげに拳を握り締め、声を絞り出した。

「情けないけど、僕には魔物をやっつける力はない。シグリッド、お願いだよ。僕とレスティーナの居場所を守ってくれないかな?」

ガスパールの切なる願いに答えようと、シグリッドは力強い瞳で答えた。

「ああ、オレンジ園の犠牲は、無駄にしない」

そうして、シグリッドは、農園に災厄(さいやく)をもたらした魔物を退治する為、一度馬車へと戻り、持って来た荷物から具足(ぐそく)や胸当て、籠手(こて)などを取り出すと、次々に慣れた手付きで装着していった。
シグリッドの(かたわ)らで、その装備品を手渡しながら、アイリスは不安そうな顔で夫を見遣る。

「あなた…本当にあの数の魔物を一人で相手するの?」
「そんな顔するな、アイリス。俺は大丈夫だから。それより、お前は何があっても絶対に、この家から出るんじゃないぞ?逃がすつもりはないが、こっちへ魔物が流れて来ないとも限らない。侵入されないように、しっかり家の出入り口を閉じておくんだ」

そして、シグリッドは荷物と一緒に持って来た、二羽の白鳩(しろはと)が入った鳥籠(とりかご)に触れて続ける。

「万が一、俺に何かあった時は、直ぐに伝書をペレス団長に飛ばせ。きっと助けを送ってくれる」
「万が一なんて考えたくない!無事に戻って…お願い、シグリッド…」

泣き出しそうな顔で己を見詰める妻に、シグリッドは優しい笑みを浮かべ、彼女から最後の籠手(こて)を受け取り装着すると、その胸に妻を抱き寄せた。

孵化(ふか)したばかりのイーブルリザードは体も小さいし力も(おと)る。数がいようと、あの程度の魔物相手に遅れは取らねぇよ」

シグリッドはアイリスの肩を優しく(つか)み目線を合わせるように身を(かが)めると、真っ直ぐに妻を見詰めた。

「俺を信じろ、アイリス」

力強い夫の瞳を見て、アイリスは小さく(うなず)くと、彼の(ほお)に手を添えて答えた。

「うん…信じてる…信じてるわ、シグ」

(ぬぐ)い去れない不安に(まゆ)を下げたアイリスを見て、ふっと笑みを(こぼ)したシグリッドは、妻の額にキスを落とすと、次いで(やり)を手にし、窓の向こうに小さく見えるオレンジ園を見据(みす)える。
そして、(いま)だ目を覚まさないレスティーナを一瞥(いちべつ)して家を出たシグリッドは、魔物の巣食う農園を目指して駆け出した。


―――――そして、数分後

他の園に魔物の手が伸びていないのを見て安堵(あんど)しつつ、オレンジ園に辿(たど)り着いたシグリッドは、身を隠す事なく、徘徊(はいかい)する魔物の中へと飛び込み槍を振った。

「グゥウウウ!」
「シャァアアアッ!」

新しい(えさ)を我が物にしようと、次々と(おそ)いかかってくるイーブルリザードを、事も無げに仕留めて灰にして行くシグリッドは、農園を駆け抜けながら、その無残にも食われて変色した木々に目を向ける。

「やはり、毒の浸食(しんしょく)が進んで見える…残せそうなものは、もう…」

突如(とつじょ)、前方から一斉に飛びかかって来た魔物に立ち止まる事なく、シグリッドは、やりきれない思いを解放するように槍を握り締め、大きく()ぎ払った。

「邪魔だッ!」

灰となり霧散(むさん)して行く魔物を尻目に、シグリッドは決意の固い瞳で(つぶや)いた。

「ガスパール、レスティーナ、許せ」

シグリッドは立ち止まって振り返ると、追い掛けて来る魔物達の姿をその目に(とら)えつつ、腰の革鞄(かわかばん)からアルコールを含んだ消毒用の小瓶(こびん)を取り出した。口で(ふた)を取り払うと、己の持つ槍先に液体を溢し、その瓶を放り投げる。

「産まれて来る場所を間違えたな。お前達には悪いが、ここで消えて貰う」

そこからシグリッドは、まるで円舞(えんぶ)するように槍を回転させ、(おそ)って来る魔物を流れるように仕留(しと)めて行った。
その中で、己を中心として地面に円を描くよう刃先を()らせた次の瞬間、摩擦の力を利用して飛び散った火花は、槍先に紅蓮(ぐれん)の炎を(まと)わせる。

「ギャァアッ!」

炎の槍が魔物を散らす度、火の粉が舞う。それは、毒を回してしまった木々にも降りかかって(くすぶ)ると、(やが)て大きな炎となって燃え上がった。

シグリッドは、炎に包まれた木々の間を駆け抜け、残った魔物を逃がさないよう次々と(ほふ)って行き、遂に残りの一匹を仕留め、農園の一番端で立ち止まった。

いつもこの時期にオレンジの果実を実らせては、(さわ)やかな柑橘(かんきつ)の香りを楽しませてくれた景色を思い返し、シグリッドは、赤く燃える木々に(うれ)いた表情を浮かべる。

その最期(さいご)を見届けようと、彼は、炎が木々を燃やし尽くすまで、その場で見守った。



――――(しばら)くの(のち)

ガスパールの家から燃え上がるオレンジ園を見詰めて、不安な時を過ごしていたアイリスは、木々が鎮火(ちんか)した後にこちらへ戻って来た夫の姿を見付けると、慌てて家を飛び出した。

「シグ!」

そんな妻の姿に気付いたシグリッドは、片手を軽く上げて微笑む。
その無事を早く確かめたい一心で、アイリスは夫の元へ一目散(いちもくさん)に駆け寄り飛び付いた。

「あなたーッ!」
「アイリス」

シグリッドが妻の体を受け止めると、次いでアイリスは彼の(ほお)に両手を添えて、慌ただしく問い掛けた。

「無事なのね?怪我(けが)はしていない?平気?」
「ああ、心配ない。だから言ったろ?遅れは取らないって」

アイリスはシグリッドが生きている事に心底 安堵(あんど)し、彼の胸に頬を寄せて強く抱き着いた。
そんな妻の(かみ)を優しく()でてやったシグリッドの元に、ガスパールも追い付いて頭を下げる。

「シグリッド、本当になんてお礼を言ったらいいか…」
「いや、礼なんかいらねぇよ、アーセナル農園には、ばあさんの代から世話になってるんだ、当然の事をしたまでだよ。それに、結局は木々を燃やしてしまうしか手がなくて、農園に大きな被害をもたらしてしまったしな…」

シグリッドが申し訳なさそうに(まゆ)を下げると、ガスパールは首を左右に振って答えた。

「何言ってるのさ、シグリッドがやってくれなきゃ、農園はもっと大きな被害を出していたよ。木々はまた植えて育てて行けば良いんだ。シグリッド…レスティーナと、そして父さん達がくれたこの農園を守ってくれて、本当にありがとう」

シグリッドの手を両手で(にぎ)ったガスパールが(やわ)らかな笑みを浮かべると、シグリッドも、ふっと口許(くちもと)に弧を描いた。

アイリスは、そんな二人を優しい瞳で見遣ると、レスティーナの状況を夫に報告しようと口を開く。

「あなた!レスティーナさん、随分(ずいぶん)と顔色が良くなって来たのよ!まだ眠っているけど、表情はとても穏やかなの」
「そうか、良かった。でも、傷の手当ては応急的なものだから、ちゃんと町医者で適切な処置をして貰えよ?ガスパール」

そう言って微笑んだシグリッドを見遣(みや)ると、ガスパールは(うつむ)き、己の不甲斐(ふがい)なさを悔いながら答えた。

「シグリッド、君は本当に何でもできるんだね。改めて尊敬したよ。突然の状況にも関わらず冷静に物事を判断して、やらなきゃならない事を見定められる。レスティーナがあんな風になってしまって、ただ(そば)で泣いていただけの自分が恥ずかしいよ。僕も、シグリッドみたいに強い男になりたいな」

もし、シグリッド達がここにおらず、自分一人であったなら、己は恐らく最愛の妻を失っていた。
ガスパールは、最悪の結末を思い、生きた心地のしない気分を味わった一方で、シグリッドのように愛する人を守れる力が欲しい、そんな男に変わりたいとも思っていた。
情けなそうに拳を(にぎ)るガスパールを見て、彼の心情を察したシグリッドは、ふっと柔らかな笑みを浮かべて答える。

「ガスパールは、今のままで良いんじゃないか?」
「え?」
「レスティーナが言っていただろう?お前に強さは求めていないと。レスティーナは、片時も離れず(そば)にいてくれる、お前のその優しさを求めているんだと思う。だから、何も恥じる事はないよ。愛する人の求めに、お前は応えているんだから」

シグリッドの言葉を聞き、ガスパールは、そっと目を閉じ、愛しい妻の姿を思い浮かべる。

互いに必要とする求めに、これからも応え、そして応えられて生きたい。
レスティーナと一緒ならそれが出来ると、妻への気持ちを再確認したガスパールは、どこか自信を取り戻したような笑みを浮かべた。

そんなガスパールを見て、シグリッドとアイリスは互いに顔を見合わせ微笑み合うと、バスケット一杯に採れた苺を手に、アーセナル農園を後にした。



――――そして、翌日の事。

(こう)ばし工房はいつものように、のんびりと焼き立てパンの販売を行っていた。

石窯(いしがま)の温度を時折確認しつつ、工房からパンの乗ったトレーを持って出て来たシグリッドが、店内のフロアにいる妻へ声をかける。

「アイリス、苺のジャムパンが焼けたから、店頭に出してくれるか?」
「はーい!」

トングやトレーを整理していたアイリスは、にこやかに返事をしながら夫の元へ歩み寄ると、焼き立てのジャムパンが乗ったトレーを受け取り、空いた(かご)に並べていった。

「ただいま、苺のジャムパンが焼き立てです!いかがですかー?」

アイリスの声を聞き、店内にいた数名の客が振り返り、今出されたばかりのパンの元へと歩み寄って来た。

「いい香りね、おひとつ頂こうかしら」
「うちにも三つ下さい!」
「はい!ありがとうございます!」

アイリスの手造り苺ジャムを包んだジャムパンは人気の商品で、作られた日には直ぐに完売してしまう程だった。
それぞれの客からトレーとトングを受け取り、手際よく接客をこなしたアイリスが、にこやかに客を見送ると、客足の途絶えた店内に、顔見知りの二人が入って来た。

「こんにちは、アイリス」

聞き覚えのある声に振り返ったアイリスは、そこにアーセナル農園の夫婦の姿を見て、嬉しそうに声を上げた。

「まあ!レスティーナさん!それに、ガスパールさんも!」

すっかり顔色も良くなったレスティーナと、その後ろから顔を出したガスパールが笑みを浮かべる。
元気そうな二人の姿を見ると、アイリスは安堵(あんど)した表情で迎え入れた。

「お体の加減はもう宜しいの?レスティーナさん」

右腕に包帯を巻いたレスティーナは、にんまりとした笑みを浮かべて、気丈に腕を回して見せる。

「ああ、この通り!ぴんぴんだよ!と、言いたいとこだけどねぇ、まだ本調子じゃないから、ガスパールに無理をするなと(なだ)められてる所さ」
「だって、レスティーナは、放っておくと直ぐに動こうとするから、目が離せないんだ」
「ふふ!レスティーナさんらしい」

困った笑みを浮かべてレスティーナを見遣るガスパールと、心配し過ぎだと(あき)れたように溜め息を吐くレスティーナのやり取りを見て、アイリスは楽しげに笑った。
ここで、工房に引っ込んでいたシグリッドも、二人の声を聞き付けて店頭に現れる。

「おお!二人とも、いらっしゃい」
「やあ、シグリッド!」

ガスパールがそう言って軽く手を振ると、彼の隣に並んだレスティーナは申し訳なさそうに頭を下げた。

「アンタには随分と世話になったねぇ、シグリッド。今、町医者へ行って来たんだけど、アンタが処置してくれた傷、これは応急なんかとは言わない、ちゃんとした処置だって医者が()めてたよ!大したもんだ!」
「はは、大袈裟(おおげさ)だよ。騎士団にいた頃に覚えた知識の一つに過ぎない、本当に簡易的な事しかできてねぇから」
「それでも、十分過ぎる程の恩を受けた。改めて礼を言わせておくれ。本当に、ありがとう」
「僕からも!ありがとう、シグリッド!」

夫婦二人が(そろ)って深く頭を下げる。シグリッドは居心地悪そうに苦笑いを浮かべると、二人に顔を上げるよう(うなが)した。

「よせって、レスティーナ、ガスパール!俺は、俺に出来る事をやったまでだし、特別な事は何もしてないよ」

なかなか頭を上げてくれない二人に困っていたシグリッドの隣で、アイリスは何か思い付いたのか口許(くちもと)で両手を合わせると、トレーとトングを手にパンを取りながら口を開いた。

「そうだわ、丁度良かった!こちら、アーセナル農園で採らせて頂いた(いちご)で作ったジャムパンなんです!焼き立てですから、召し上がりませんか?お飲み物もご用意します!」

ここで(ようや)く頭を上げたレスティーナとガスパールは互いに一度顔を見合せると、再びアイリスに向き直り答えた。

「いいのかい?朝食も取らずに出て来たから腹ぺこだったんだよ!」
「うん、そうだね。じゃあ、お言葉に甘えよう、レスティーナ」

二人の返事を聞くなり、アイリスはシグリッドに目配せして微笑むと、早速お茶の準備の為、工房に向かった。
一方のシグリッドは、張り切って駆けて行った妻を横目に、ガスパール達を店頭奥のカフェスペースまで誘導する。

「このテーブル席を使ってくれ、直ぐに用意するよ」

テーブルに向き合って腰掛けたガスパールとレスティーナの幸せそうな表情を見たシグリッドは、二人の笑顔を守れた事に改めて喜びを覚え、ふっと笑みを溢す。

その後、アイリスの()れた紅茶と、焼き立ての芳ばしいジャムパンに舌鼓(したつづみ)を打ちつつ、一同は(しば)し、とりとめのない話しにも花を咲かせたのだった。
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