壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①

第零話 白いアネモネのカード



物語の舞台となるノアトーン王国。
その北の沿岸に位置する港町リジンは、貿易船の出入りもあって、日々、多くの行商人や旅人の姿が見られる。
そんな港町の、人の往来が激しい大通りからは少し外れ、静かな通りにある小さなパン屋、『芳ばし工房』は、古くからこの街の人々に愛される老舗(しにせ)
現在は店舗を少し改装し、若い夫婦が受け継いで営んでいた。

一見して特別目立った所の無い平凡なパン屋だが、実は、このパン屋、ある条件を満たした『特別なお客様』をもてなす、裏の顔があった。

現店主が、元王国騎士であった事と何か関係しているというのだが…。

これは、その小さなパン屋、芳ばし工房の店主、シグリッド・ジャンメールと、妻アイリスの日々の物語である。




―――ある夏の日の港町リジン。

正午前で、飲食店はどこも客足が多い時間帯。そんな中、大通りから外れた先の小さなパン屋、芳ばし工房も、この時間はいつも(にぎ)わっていた。

トングを使い、手際よくトレー上のパンをワックスペーパーに包む、店主の妻アイリスは、レジカウンター前に並んだ客の会計を行っていた。

「チーズクッペが二つ、スパンダワーが一つ、ミニクロワッサンが五つで、千三百クリソスになります」

アイリスがにこやかな表情で、包んだパンを手提げのペーパーバッグに入れている間、年配の女性客は財布を出しながら、買い忘れていたものがあったと(まゆ)を下げた。

「ああ…やだ、アイリスちゃん!私ったら、ヨーグルトドリンクの事、すっかり忘れていたわー」
「まあ、お買い忘れですか?でしたら、今すぐご用意致します!」
「いや、良いのよ!お客さん多いし、待たせちゃ悪いから!」

女性客は、その場を離れようとするアイリスを引き留め、後ろに会計を待って並ぶ客を一瞥(いちべつ)し、今更、この場を離れて飲料を取りには行けないと、半ば諦めた表情で笑った。
そこへ、店主のシグリッドが状況を察したのか、冷蔵庫から数本のドリンクを取り出して女性客に歩み寄る。

「いつも、このヨーグルトドリンクだっけ?ガーナンさん」

そう言って彼が差し出した飲料を見て、ガーナンと呼ばれた女性客は嬉しそうに表情を綻《ほころ》ばせた。

「そう!これこれ!流石(さすが)、シグリッドくんだわー!買わずに帰ってたら、また旦那にどやされてた所さね!」
「はは、そいつは危ない所だったな」

シグリッドが楽しげに笑うと、ガーナンは彼が差し出したドリンクを受け取りながら困ったような笑みを浮かべた。

「まったくだよ!うるさいったらないんだから。それじゃあ、ヨーグルトドリンク、二本追加でお願いね、アイリスちゃん」
「はい!いつも、ありがとうございます!」

シグリッドが抱えたドリンクからもう一本同じものを取ったガーナンからそれを受け取り、アイリスは追加でレジスターに打ち込んでいった。そして、直ぐに会計を終えたガーナンは、ジャンメール夫婦に手を振って、その場を後にする。
そんなやり取りを見て、ガーナンの次に待っていた年配男性は、トレーをカウンターに置きながら、シグリッドに、にんまりとした顔で目を向けた。

「男前で気も利くなんて、女性ファンも増える一方だな、シグリッド。その様子だと、若い女に言い寄られたりもするんじゃねぇか?(うらや)ましいねぇ」
「よして下さいよ、ラマトさん。そんな事はありませんって」

ラマトと呼ばれた男性客の言葉に微苦笑するシグリッドが頭を()くと、アイリスは手元の作業をこなしながら、どこか(むく)れた顔で告げる。

「あら、無いとは言い切れないでしょう?シグったら、美人や可愛い女性に良い顔されると、すーぐ鼻の下を伸ばすんだから。見てられないわ」

今でこそパン屋の店主をしているが、元王国騎士という経歴を持つ夫。体格も良く端正な顔立ちをしている為、女性の目を引くのは妻も認める所。
そんな夫も妻一筋である事に偽りはないのだが、美人に良い顔をされれば、やはり悪い気はしない。そんな男の(さが)のせいで、時折だらしない態度になる夫を叱咤(しった)するようにアイリスが言うと、(わず)かに頬を染めたシグリッドは、照れ隠しか眉間(みけん)(しわ)を寄せて答えた。

「の、伸ばしてねぇよ、お前がそういう偏見の目で俺を見てるから、そう見えるだけだろ」
「いいえ、伸びてますー。今度、ラマトさんにも見て頂いたら良いのよ!(かま)の中で程好く焼けたチーズくらい伸びてるんだから」
「程好く焼けたチーズ…?」

相変わらず剥れたまま、微妙な例えで反論するアイリス。レジスターに金額を打ち込んでいく妻の傍で、シグリッドが引き攣った笑みを浮かべると、仲睦まじい二人を見たラマトは豪快に笑った。

「ハハハ!まあ、アイリスちゃんみたいな可愛い嫁さんが傍にいると、シグリッドも余所見(よそみ)をする暇なんかねぇよな!」

シグリッドが素直に肯定しようと口を開きかけた所で、妻は己の僅かに染まった頬を包むように両手を添えて、歓喜の声を漏らした。

「まあ、やだわ、ラマトさんったらー!モテモテの夫から溺愛されている可憐な看板娘のお嫁さんだなんてー!言い過ぎです!」
「だから、お前はいつも言い過ぎなんだよ。色々と盛り過ぎだろ」

と、半眼(はんめ)で夫に突っ込まれたアイリスは、それすらも聞こえておらず、パンを入れたペーパーバッグを上機嫌に差し出した。ラマトは、それを受け取りながら、彼女らしいと表情を綻ばせつつ(ふところ)の財布に手を伸ばす。

「ハハハハッ!相変わらずだなぁ!アイリスちゃんは!」

その後も、ほのぼのとした雰囲気の中、常連客だけでなく、旅人や商人を相手に、パンを売り上げていったジャンメール夫妻は、客足の途切れる夕方前に少し休憩を挟もうと、それぞれ飲み物と軽食を準備していた。

「あなた、珈琲が入ったわよ」

木製のトレーに、夫の珈琲と己の紅茶を準備して来たアイリスは、工房でパンの追加を焼いている彼の元に歩み寄った。

「おう、いいタイミングで来たな、アイリス」

妻に気付いたシグリッドは、ピールと呼ばれる持ち手の長い木ベラを手に石窯を(のぞ)くと、そこでふっくらと焼けたマフィンを(すく)い取って、作業台上のトレーに乗せていく。

「店頭に出したマフィンの生地がもう少し残ってたから、石窯で焼いてたんだ。丁度、今、焼き上がった所だよ」
「わあ!今日のおやつはマフィンねー!」

焼き立ての甘くて芳ばしい香りを漂わせるマフィンに目を輝かせたアイリスが、その傍に飲み物の乗ったトレーを置いた所で、彼女の腹の虫が一際大きな声を上げた。

「あ…」

まるで(なだ)めるように、妻が腹を押さえて擦ると、シグリッドは小さく吹き出した。

「ぶ…はは!本当、いいタイミングだったな」
「うふふ…」

照れ隠しに笑うアイリスを微笑ましく見遣り、シグリッドは準備していた皿にマフィンを乗せて、妻に差し出してやった。

「ほら、コイツを食って、荒ぶる腹の虫を鎮めてやれ」
「あら、私のお腹の虫は、一つのマフィンで鎮まる程大人しくないわよ」
「おお、そいつは手強いな、だったらもう一つおまけだ」

シグリッドは、そう言っておどけて見せると、妻の皿に追加でマフィンを乗せてやる。それを見て満足そうに微笑んだアイリスは、背凭(せもた)れのない小さな丸椅子に腰掛けて夫が座るのを待った。
そして、他のパンの焼き加減を見終えると、シグリッドも妻と同じように腰を落ち着けて、二人は(しばし)し、飲み物とマフィンをお供に取り留めのない話しに花を咲かせた。

「それでね、コルサさんもミラルダさんもお互い譲らないから、お花屋の前で口喧嘩になっちゃって、あっという間に人垣ができたのよ」
「まったく、人目も(はばか)らず、仕方のねぇ奴らだな」

こんな風に、何気無い日常を夫と送れる。アイリスは、この暮らしを心底幸せだと感じていた。
しかし、そんな中でも彼女には一つ、夫に関して気掛かりな事があった。それは、いつも突然やって来るもので…

「すみません、どなたかおられませんか」

工房の向こうの店頭で人の声がすると、紅茶を一口飲んだアイリスはカップを置いて身動(みじろ)いだ。

「あら、お客様かしら?」
「ああ、俺が出るよ、お前はゆっくりしてな」

立ち上がろうとした妻を止めて、シグリッドは珈琲のカップを置くと、足早に店頭へ向かう。そこには初老の男性が、どこか不安げな表情で店内を見回す姿があった。

「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」

シグリッドが声を掛けると、彼に気付いた男性客は、探るような目で問い掛ける。

「あの…貴方が店主様ですか?」
「ええ、店主のシグリッド・ジャンメールです」

その返事を聞いて、ほっと胸を撫で下ろした男性客は、シグリッドに歩み寄り、腰に巻いた革鞄(かわかばん)から、ある物を取り出して見せた。

「良かった…こちらを、貴方に手渡すよう言われて来ました」

それは、黒地に白いアネモネの花が描かれた一枚のカードだった。裏面は白地で、何か文字が(つづ)ってあり、シグリッドは差し出されたそれを受け取ると、書かれた内容に目を通して言った。

「ご注文は、フーガスとグリッシーニですね。生憎(あいにく)、本日店頭に無いパンですので、ご提供に少々お時間を頂きます」

ここで少し(あせ)りを見せた男性客が、困ったように眉を下げて問い掛けた。

「そうですか…分かりました、出直して参ります。いつ頃お伺いすればよろしいでしょうか?」
「では、今夜八時に裏口の方へお越し下さい。お待ちしております」

そう言って男性客を見送るシグリッドの様子を、工房から静かに(うかが)っていたアイリスは、何が起こっているのかを察し、浮かない顔で店頭に顔を出した。

「あなた…それ、白いアネモネのカード?」

振り返ったシグリッドは妻の表情を見て(うれ)いた笑みを浮かべると、今の話しを聞かれていたのだと理解し、隠す事なく先程のカードを見せた。

「ああ。注文を貰ったパンの準備を始めるよ」

アイリスが視線をカードに落とすと、そこに書かれていたのは、二つのパンの名前だった…。


ノアトーン王国を自由と平和の国に導いた、先代王アルトの影響を受け、幼少期から騎士に憧れていたシグリッドは、その類い(まれ)なる身体能力を買われ、十六歳になった年にノアトーン王国騎士団への入団を果たした。
国を創るのは王では無く民であり、騎士はその『民を守る剣』であると、強い信念を持って自ら騎士を率いていたアルト王は、民からも騎士達からも、敬愛される人物だった。

しかし、彼が病に倒れ、実子である第一王子のブールが王位を継ぐと、ノアトーンは、力によって民を支配する国へ変貌を遂げる。そして、騎士の在り方も『王を守る剣』として変わり、民の信頼を損ね始めていた。

そういった背景があり、とある理由からノアトーン王国騎士団を去ったシグリッドは、現在、騎士団が再び民からの信頼を得られるようにと、先代王アルトの想いを継ぐ騎士と密かに繋がり、人助けを裏仕事としていた。

その人助けこそが、芳ばし工房の裏の顔であり、白いアネモネのカードを持つ『特別なお客様』からの依頼を聞いては、解決に導いている。

では、そのカードの出所はどこなのかというと…



――――その日の夜八時。

寝室に入った妻と別れ、ダイニングで一人準備を整えていたシグリッドは、壁掛け時計の針が定刻を指したのを見て、裏玄関へと向かった。
そして、扉を開けば、そこに昼間来た男性客の姿を見付けて微笑み、軽く頭を下げる。

「お待たせしました。どうぞ、中へ」

男性も神妙(しんみょう)な面持ちで深々頭を下げると、シグリッドに(うなが)され、早速、ダイニングへと向かった。
そこで、テーブルの上に置かれた(かご)盛りのパンを一瞥した男性は、不思議そうな顔をすると、次いで、慌てた様子でシグリッドに握手を求めた。

「ああ、申し遅れました!私は、ノアトーン城下町の一般地区から参りました、ニルバ・ポボフと申します」
「改めまして、シグリッド・ジャンメールです」

ニルバの手を取って握手を交わすと、シグリッドは彼に着席を勧め、テーブル上の籠に盛られたパンを左手で示した。

「こちらが、ご注文頂いたフーガスとグリッシーニです」

籠に入ったパンが白いアネモネのカードに書いた物だと分かり、ニルバは先程と同じように不思議そうな表情を浮かべた。

「ここで、本当にパンを振る舞われるのですね…」

シグリッドは白い皿を客人の前に置き、生ハムやソースの入った器を傍に添えながら答える。

「ええ、あくまでも、うちはパン屋ですから、ご注文頂いた商品は必ずお渡しします。今回は、どちらも手で割って、食べやすい大きさにしてからご賞味下さい」
「は、はあ…では、頂きます…」

ニルバが籠に手を伸ばして平べったいパンを取ると、シグリッドも向かいの席に着席し、今しがた彼が手にしたものについて説明を加えた。

「まずは、そちらの葉のような形をしたフーガスというパンですが、生地にいくつかのハーブを織り混ぜて焼いたものです。仕上げにオリーブオイルを塗っているので、表面には(つや)があり、食感も楽しんで頂けると思います」
「葉の形…確かに、切り込みの部分が、まるで葉脈のようですね。うん、軽くていくらでも食べられそうだ」

手で折って口に運ぶニルバが、かりかりとした食感を楽しむように食す中、シグリッドはもう一方の長細いパンについても説明を続けた。

「そして、もう一つの細長いスティック状のパンがグリッシーニといって、酒のつまみや前菜に食されるものです。今回は、生ハムとディップソースをご用意しましたので、お好きなものをお使い下さい」
「ええ、こちらは少々ワインを(たしな)みますので、よく存じ上げております」

確かに注文したものはパンだが、本来の目的を聞いてはくれないのかと、ニルバは内心、怪訝(けげん)な思いで食事を進めていた。
だが、そんなニルバの胸の内に湧いた疑問は、意外な形で解消される事となる。

「ニルバさん、召し上がりながらで構いません。早速ですが、今回の仕事について話しを進めさせて頂きます。僕に依頼したいのは、魔物討伐という事でよろしいですか?」

シグリッドが突然問い掛けて来た事は、まさに己が目的として来た事で、驚いて思わずパンを(のど)に詰めそうになったニルバは、どうにかそれを飲み込み目を見開いた。

「す、(すで)にお話しを伺っておいでなのですか?」

白いアネモネのカードを持っていた人物から情報を得ているのかとニルバが問うも、シグリッドは首を左右に振って否定した。

「いえ、仕事の詳細は客人から直接伺う事になっていますので、何も」
「では、何故、魔物討伐の依頼だと?」

シグリッドは、ニルバから手渡されたカードを取り出してテーブルの上に置いた。

「ノアトーン王国第ニ槍騎士団団長のペレスから、この白いアネモネのカードに、フーガスとグリッシーニを書いて注文するよう言われたでしょう?」
「ええ…そうですけど、それが、何か…」
「このカードに書かれた注文の品で、僕は粗方、仕事の内容を読み取っています。それを見て、依頼をお引き受けするか否かをまず判断している」

今一度、カードに視線を落としたニルバの目には、己が書いた文字しか見えず、これから何をどう判断するのかと、怪訝な表情を浮かべた。

「カードには、パンの品名しか書いてはおりませんが…」

これに、シグリッドは当たり前のように(うなず)いて、ニルバの疑問に答えた。

「ええ、そうです。一見してパンの品名だけですが、実は、それぞれのパンに暗示を込めていて、それを繋ぎ合わせ、意味を読み取っているんです」
「パンに暗示?」
「例えば、今回ご注文頂いたフーガスは、その昔、窯の温度を計る為に、『かまどの灰の下で焼いた』パンという歴史があります。その『灰』から連想し、魔物の特徴である、絶命後、灰になる習性から、フーガスには魔物を暗示する意味を持たせた」
「ッ!」
「同じように、グリッシーニは、その細長い形状から、僕が得意としている槍を暗示している。つまりは、僕が技を奮うという意味を。この二つの組み合わせから、魔物討伐を意味しているのだと読み取りましたが、違いますか?」

ニルバは、シグリッドの説明を聞いて納得したように頷くも、しかし、そのような事をする意味までは読み取れずに首を(ひね)った。

「成る程…そういう事だったのですか。ですが、何故そのような遠回しな真似を?依頼内容をカードに直接書き込めばよろしいのでは?」

それに、シグリッドは当然の疑問だと柔らかな笑みを浮かべて答える。

仰有(おっしゃ)る通り。ですが、僕は、騎士団を去った一市民です。騎士団と、その一市民が繋がり、協力関係を築いて何かを行う事は、例えやっている事が人助けであっても謀反(むほん)とみなされる。ですからこうして、僕はパンの注文を『受けているだけ』なんです」

王位がブールに移ってからというもの、様々な事で取り締まりが厳しくなっている。民衆の自由も狭められている昨今では、シグリッドが警戒するのも頷けると、ここで合点がいったニルバは、全て理解したと腕を組んだ。

「騎士団との繋がりを明るみに出さない為に、あくまでもパンの注文として承る。そういう意味があったのですね…」

シグリッドは小さく頷き、理解を得られた所で本題へ入ろうと話しを続けた。

「詳細を伺っても、よろしいですか?」
「ええ。この為に、ノアトーン城下町から遠路はるばるやって参りましたから」

ニルバは、皿の上で指に付いたパンの粉を擦って落とすと、用意されていたグラスの水を一口飲んで言葉を継いだ。

「この街の東から出ている街道(かいどう)を通り、南東へ下った先に小さな集落があります。そこに、私の祖父母が暮らしているのですが、これまで穏やかだったその地に、どういう訳か最近、魔物が現れるようになったそうなのです」

この国には、自警団の結成や傭兵の雇用がままならず、自衛の(すべ)を持たない集落が数多く存在している。ニルバの言う集落も、それに当て()まる場所だと知るシグリッドは、険しい表情を浮かべた。

「騎士団が街道を巡回していないせいかもしれませんね」
「街道の巡回?」
「ええ、アルト様が王位に就かれていた頃、騎士団は方々の街道や集落に遠征へ向かい、魔物討伐を行っていました。しかし、ブール王が即位されてからは、それがほぼ無くなってしまった。それゆえに、魔物も警戒を緩めて人里へ近付くようになってしまったのでしょう」
「そんな事が…。では、王や騎士団は今、一体、何に力を奮っておられるのか…」
「国の財政確保という名目で、例え内乱に発展しようとも、領土の拡大や遺跡、遺物の探索ばかりを行っています。王に至っては、自分の為の過ぎた豊かさも手に入れているとか」

(いきどお)りを抑えるように拳を固く握ったシグリッドが、やりきれない思いを抱いて目を閉じると、同じように怒りを沸かせたニルバは、悔しげに歯噛みした。

「なんという話しだ…祖父母達は、自分達が慎ましやかに暮らす為だけの農作物を荒らされ、魔物の襲撃に(おび)えながら暮らしているというのに、王は私腹を肥やす為に騎士団を…」

祖父母の集落を助けたい一心で苦悩していたニルバは、魔物討伐を頼める当てもなく、唯一希望を持って騎士団の詰め所を訪れた時の事を思い出し、苛立|《いらだ》たしげに拳を握った。

「今回の件で直接騎士団の詰め所へも行きましたが、まったく取り合って貰えなかった。勿論、近隣の街の自警団にも掛け合ったのですが、人手に余裕がある訳ではなく、集落にまで手を伸ばせないと…」
「そうでしたか…」

家族が魔物に襲われるかもしれない、そんな不安や焦りの中、たった一人で駆け回り、助けを求めていたニルバの心中を思えば、シグリッドは、いたたまれなくなり眉を下げた。
ニルバは、シグリッドこそが最後の希望なのだと、(すが)るような瞳で言葉を継ぐ。

「困っていた私は、城下町のユグドラ教会に務める友人に相談をしたのです。そうしたら、彼は、第二槍騎士団団長のペレス殿と繋いでくれた。そして、ペレス殿に事情を話したところ、その白いアネモネのカードを渡され、こちらへの紹介を受けたという訳です」

第二槍騎士団団長ペレス。彼こそ、シグリッドが今でも信頼を置く、元上官だった男で、アルト王の意思を継ぐ騎士の一人である。
各所にいる限られた人物がペレスと繋がりを持っており、彼らの元へ困り事を抱えている人が助けを求めて来たならば、代わりにペレスが話しを聞く手筈になっている。その話しの中で、騎士団を動かせないと判断された場合のみ、この白いアネモネのカードが使われ、芳ばし工房に『特別なお客様』として紹介されているのだ。

こうして、シグリッドは、騎士団と密かな繋がりを持ち、たった一人で、パン屋の裏仕事を引き受けている。

「今回のご依頼、お引き受け致します。集落の方々が、安心して眠れるように」
「本当ですか!ありがとうございます!シグリッド殿!」

何度も頭を下げるニルバに、顔を上げるよう促したシグリッドは、柔らかな表情を浮かべて続ける。

「明日の朝、早速、現地へ向かいます。ニルバさんは、この街の宿で待機しておられて下さい。仕事が終われば、報告に伺います」
「はい、お願いいたします!」

これで家族が救われる。そう思い涙ぐんだニルバと、優しく微笑んだシグリッドが再び握手を交わす姿を、いつからか壁の向こうで見ていたアイリスは、(ぬぐ)えない不安を胸に眉を下げた。

そして、裏玄関でニルバを見送ったシグリッドがリビングへ戻って来ると、ソファに腰掛けていたアイリスは立ち上がり、夫に歩み寄った。

「お店…明日は、お休みにする?」

憂いた笑みを浮かべた妻に、シグリッドは小さく頷いて答えた。

「ああ、そうだな。お客さんには悪いが、臨時休業にさせて貰う。お前は、のんびりしておいで」

そう言って口許(くちもと)に柔らかな弧を描いたシグリッドが、妻の頬に手を伸ばして触れる前に、アイリスは、溢れて来る不安を抑えようと、夫の胸に強く抱き着いた。

「どうか気を付けて…」

本当は、危険な事から離れて欲しい。それが妻の本心だったが、夫が騎士団を辞めて、それでも尚、先代王アルトの意志を継ぎ、騎士団の誇りを取り戻そうとしているのを見ては、ただただ夫の無事を祈るしか、アイリスには出来なかった。
そんな妻の本心を知ってか知らずか、シグリッドは愛おしそうに妻の体を強く抱き締める。

「大丈夫、心配ないよ。ちゃんと帰って来る」
「シグ…」

夫と共にいる幸せを感じれば感じる程、白いアネモネのカードを見る度に、アイリスは、今ある暮らしを失いたくないと、不安な思いを抱かずにはいられなかった。


――――そして、翌朝。

愛馬に股がり、早くにリジンの街を発ったシグリッドは、ニルバの祖父母が暮らすという、田畑の広がる長閑(のどか)な集落を訪れ、早速、周辺を徘徊している魔物の討伐を行った。

「ギャァアアアッ!」

鋭《するど》い長爪(ながづめ)を持つ体長二メートル程の土竜(もぐら)のような魔物達は、シグリッドの流れるような槍捌(やりさば)きに翻弄(ほんろう)されながら、次々と断末魔を上げて灰と化していく。
集落では魔物対策として、住居区を囲うように防衛用の罠や拒馬(きょば)が仕掛けられていたが、魔物はそれを破り、侵入経路を確保しているようだった。

そんな中、農作業をしていた集落の長は、襲われそうになっていた所をシグリッドに今しがた助けられ、土の中に身を隠しながら襲い掛かって来る魔物に怯えて(うずくま)っていた。

「シ、シグリッド殿!あの土竜のような魔物は一体何なのじゃ!」

突然、土の中から飛び出し襲って来た魔物を槍の一突きで仕留めると、シグリッドは警戒を解かずに答えた。

「シルバーモールという名の魔物です。見ての通り、短い銀の獣毛が身体を覆い、土に潜って獲物を襲う事から、銀の土竜としてその名が付けられたと聞いています。動きが素早い上に牙も鋭い、飛んで噛みつくと奴らは簡単に獲物を離しませんよ。出来るだけ身を低くして、早く家屋の中へ!」

直後、集落長の足元から土が盛り上がり、勢いよくシルバーモールが飛び出して来る。悲鳴を上げた長の元へ直ぐ様駆け寄ると、シグリッドは間髪入れずに魔物を蹴り飛ばし、槍の切っ先を突き出して追撃を加えた。

「ひぃいいいッ!後は頼みましたぞ、お若いの!」

灰になって霧散していく魔物を横切り、集落長は悲鳴を上げながら程近い場所にある納屋へと飛び込んで行った。
シグリッドはそれを見届けると、先程から群れて出て来る魔物の様子に眉を潜めて(つぶや)いた。

「数が多い。近くに巣でも作ったか…」

そんな可能性を思い立ち、もっとよく周辺の調査が必要だと考えていた、その時…

「ひゃぁあああッ!た、助けてくれーッ!」

突然、男の悲鳴が上がり、その方向を見定めたシグリッドは急いで駆け付けた。
すると、そこには、腰を抜かした年配の男を(かば)うように、両手を広げて立つ女性の姿があった。

「に、人間なんて食べたって美味しくないわよ!あっちへお行きなさいッ!しっしっ!」

低い姿勢で威嚇(いかく)してくる魔物を、青ざめた顔の女性が追い払おうとしている。その様子を見て、彼女が誰だか理解したシグリッドは驚愕(きょうがく)し声を上げた。

「アイリスッ!?」

呼ばれて顔だけ振り返ったアイリスは、その目に夫の姿を映すと、安堵(あんど)して涙を浮かべた。

「ああ、シグリッド!」

アイリスが顔を逸らしたのを機に、シルバーモールは鋭い牙を剥いて飛び掛かる。
咄嗟に駆け出したシグリッドは身体を捻って回転させ、持っていた槍を大きく振りかぶると、それはシルバーモールの身体を貫いた。
しかし、魔物の身体は灰になる前にその巨体をアイリスにぶつけ、彼女は勢いよく突き飛ばされ宙に浮いた。

「きゃぁあッ!」

シグリッドは、飛んだ妻の身体を抱き止めると、その場に片膝(かたひざ)を着き、彼女の上体を支えて顔を(のぞ)き込んだ。

「アイリス!大丈夫か!」

その身体に外傷は無いかと、余裕のない表情で問い掛けて来るシグリッドに、アイリスは小さく(うな)りながら答える。

「う、んー…大丈夫、ちょっと目が回ってるだけー…」

魔物の体当たりが効いているのか、軽い眩暈(めまい)を起こしているアイリスの頬に触れると、シグリッドは安堵半分、怒り半分に声を上げた。

「お前、どうしてここにいるッ!」

首を左右に振って眩暈から解放されたアイリスは、夫の表情が険しいのを見て、ばつが悪そうに眉を下げた。

「それは…昨日、あなたとお客様がお話ししていたのを聞いて、シグリッドが、ここに来るって知っていたから…」

アイリスの声が段々尻すぼみになっていくと、シグリッドは、いよいよ怒りを(あらわ)にした。

阿呆(あほう)ッ!話しを聞いていたって事は、ここに魔物討伐に来たって事も知ってるんだろッ!何しに来たんだッ!」
「だから、あなたの事が心配で…」
「俺の心配はいいッ!自分の心配をしろッ!何でお前はいつもこう無茶をする!」

普段はおっとりとしている妻だが、時折、こうして周囲も驚く程、積極的に動く一面が見られる。それは、大切なものの為だからこその行動なのだが、シグリッドにしてみれば、毎回、肝を冷やす展開に変わりはない。夫が己の身を思って怒りを沸かせる事も理解しているアイリスは、それでも動かずにはいられなかったと(うつむ)いた。

「ごめんなさい、心配をかけるつもりはなくて…ただ、シグリッドが無事でいることを確かめたかったの…」

反省を示す妻を、シグリッドは今一度その胸に強く抱き締めると、溢れ出て来る思いを彼女の耳元で告げた。

「お前の気持ちは嬉しいし、有り難いと思ってる。だけど、前にも言ったろ、俺は、俺の手で守れずに大事なものを失うのはごめんだって」
「うん…」

まるで生きているのを確かめるように、己の体を抱き締めてくれる夫のその思いを、痛い程受け止めたアイリスは、彼を心配させてしまった事を少し後悔しながら目を閉じた。

「無事で良かった、アイリス」
「シグも…」

予期せぬ出会いも束の間、シグリッドは妻の手を取って立ち上がり、腰を抜かしてしまった男と妻を安全な場所まで避難させ、そのまま討伐を再開した。


―――――そして、その日の夕刻。

無事に魔物討伐を終え、港町リジンに戻たシグリッドとアイリスは、結果をニルバに報告する為、彼が待機する宿を訪れていた。

「近くに巣穴がありましたが、シルバーモールの姿は一匹残らず無くなっていたので、一先(ひとま)ず、襲撃の心配は無いと思います。ですが、集落長さんとも相談して、今後は自衛の強化を図って頂くようお願いしました」

シグリッドからの報告を聞き、心底安堵したニルバは、ここで(ようや)く強張っていた表情を緩め笑みを溢した。

「そうですか、本当に、ありがとうございました!報酬につきましては、シグリッド殿の言い値に合わせますので…」

これに、シグリッドは頷くと、ニルバの考えていた報酬額とは、まったく異なる答えを出して彼を驚かせた。

「では、パンのお代、五百クリソスでお願いします」
「え?パンのお代?」

魔物討伐など、傭兵を雇えばそれなりの額が要求されるというのに、たったそれだけの支払いで良いのかとニルバが困惑する。
だが、シグリッドは、それ以上を受け取るつもりは端からなく、彼に気持ちよく微笑んだ。

「うちはパン屋ですから、それ以外の代金は頂きませんよ」

感謝してもしきれないと、何度も頭を下げるニルバに別れを告げ、シグリッドとアイリスは、陽の暮れかけた空の下、我が家を目指して歩き出した。

「アイリス」
「うん?」

妻の歩幅に合わせて歩いていたシグリッドは、どこか不甲斐(ふがい)なさそうな表情でアイリスに視線を落とすと、その場に立ち止まって言葉を継いだ。

「ごめんな、今日は少し言い過ぎた。お前に心配させてるのは、本当に申し訳ないと思ってる。俺が騎士団を辞めた今でも、やりたい事を出来ているのは、お前の理解があるからなのに…」

白いアネモネのカードは、己が騎士団の再生に協力したいという願いから生まれたものだが、共に人生を歩む妻が認めてくれなければ、その願いは叶ってはいなかった。
結婚してからも妻に不安を与えている事が心苦しくもあるシグリッドが俯くと、アイリスは、そっと夫の手を握って微笑んだ。

「私の事は大丈夫。それこそ、前に言ったでしょう?シグリッドには、後悔して欲しくないから、やりたい事、やって貰いたいって」
「アイリス…」

背を押してくれる妻がいるから、今でも己は騎士の信念を曲げずにいられるのだと、シグリッドは心から妻に感謝した。
そんな夫の心中を察しているのか、アイリスが優しい笑みを崩さずにいると、そこで、また腹の虫が一際大きな声を上げた。

「うう…またお腹の虫がー…」

これに再び吹き出してしまったシグリッドは、半ば感心したように妻の頭を撫でた。

「ぶ…ふふ、魔物に襲われた後だってのに、肝の据わった奴だな、まったく」
「うふふ…」

照れ隠しにまた困ったような笑みを浮かべるアイリスの手を握り返して、シグリッドは方向転換すると、大通りの先に見える港を指差した。

「このまま、港近くのレストランへ寄って帰るか。うちの大事な奥さんが、空腹で倒れちまう前に」
「わあ!賛成、賛成!」

喜んで同意した妻と共に、他愛ない話しをしながら潮風の香る町並みを歩く。

この幸せを守りたい。シグリッドは、行く末の不安なこの国を憂いながら、騎士団が再び、こうした民の幸せな暮らしを守れる一団になれるよう願った。

この日から程なく、妻のアイリスが強い決意を抱き、再びシグリッドを困らせる事になるのは、また別のお話し…。
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