壮麗の大地ユグドラ 芳ばし工房〜Knight of bakery〜①

第十五話 希望の塔



ノアトーン城下町から東へ数キロ行った先、太古(たいこ)の昔、天上を目指して建てられたという、今は廃墟(はいきょ)と化した(とう)がある。

『ホープタワー』と呼ばれるその塔は、今や魔物の巣窟(そうくつ)となっており、腕に覚えのある者達の間では、鍛練場(たんれんば)としても有名だった。

近年では、富豪の道楽で、年に一度『タワーレース』というものが(もよお)されており、塔の天辺(てっぺん)をゴールとして参加者に順位を(きそ)わせるという危険な競技も行われている。

ノアトーン騎士団に詰めていた頃には、シグリッドもホープタワーを鍛練場に選んでいた事もあるが、騎士団を去ってからというもの、魔物の巣窟であるその塔に近寄る事は無かった。

しかし、とある切っ掛けから、彼は大切な者を取り戻す為、幾年(いくねん)かぶりに魔の塔を駆け上がる事になってしまったのだ。


ここは、ノアトーン城下町の教会。
礼拝堂(れいはいどう)の長椅子に腰掛け、ある人物の到着を待っていたシグリッドの表情は(けわ)しい。
彼は、ステンドグラスから差し込む夕陽を浴びて、陰を差す女神像を見上げると、一人静かに(つぶや)いた。

「アイリス、無事でいてくれ…」

そう言ったシグリッドは、両手を組んで項垂(うなだ)れる。

いつも(そば)にある妻の姿がない事に、シグリッドは焦燥(しょうそう)と、そして、この事態を招いた人物への怒りを膨らませつつ目を閉じた。



――――(さかのぼ)る事、二日前。


港町リジンで、いつものように(こう)ばし工房(こうぼう)を営業した後、シグリッドとアイリスは、孤児院(こじいん)の皆から食事に招待され、出掛ける予定だった。

差し入れにと、売れ残ったパンをランチバスケットに入れて持ったアイリスは、店の玄関口で振り返り、夫に微笑んだ。

「では、あなた!私は先に出掛けて、食事の準備を手伝っているわね?」
「ああ、仕込みが終わり次第、俺も出るよ。途中で寄り道なんかするんじゃねぇぞ?」
「もう、子供じゃないんだから、そんな事しません」
「はは、どうだか」

いつもの他愛(たあい)のない会話。()ねた顔で見上げる妻を、優しく(なだ)めるシグリッドの瞳は柔らかい。
「それじゃ、後でね」と出て行く妻の笑顔を見たのは、この日、この時が最後だった。

町外れの孤児院までは、少し離れてはいるものの、人目のある大通りを抜けて行ける。
陽は(かたむ)いていたが、暗がりで暴漢(ぼうかん)(おそ)われるような時間でもなく、妻の身に危険が迫ろうなど思いもしなかったシグリッドは、翌日の開店準備を整えてから孤児院へ出掛けようと、妻とは別に店を出る事になっていた。

(やが)て、準備を終え、陽が沈んだ頃に店を出たシグリッドは、孤児院に到着と同時に顔色を変える事になった。

「え?アイリスが来ていない?」
「ええ、一度も顔を見せてはおりませんよ。シグリッドと一緒だとばかり…」

そう言ってシグリッドを迎えてくれたのは、アイリスにとって母のような存在である、シスター長のマザーソーニャだった。
品のある老女(ろうじょ)が不安げに言うもので、何かの冗談などとは微塵(みじん)も感じられず、シグリッドは血の気が引いていく音を聞いた。

あの妻の事である、途中で知人に声をかけられて話し込んでいるのか…、だが、寄り道にしては遅すぎる。

シグリッドは言い知れぬ不安を胸に、元来た道を戻って妻の姿を探そうと(きびす)を返した、その時…

「シグリッド!」

孤児院の院長であるマデリアが血相を変えて施設の奥から駆けて来た。その後に続いて見知った顔の子供達も数名着いて来る。
シグリッドは、院長のその様子から嫌な予感を覚えて(まゆ)(ひそ)めた。

「マデリア院長」
「シグリッド、これを!」

マデリアから一枚の封筒が差し出されると、シグリッドは怪訝(けげん)な顔でそれを受け取る。

「これは?」
「どこかの従者(じゅうしゃ)だろうか…さっき、黒服の男二人が、それを持って来たのだ。子供達に近付こうとしていたので不審(ふしん)に思い私が歩み寄ったら、これを君にと…」

全く心当たりの無い黒服について、シグリッドが記憶を探っていると、マデリアの(そば)にいた少年リュークが険しい顔で声を上げた。

「あのデカブツども!アイリス姉ちゃんを預かってるって言ったんだ!姉ちゃん、きっと奴らに(さら)われたんだよ!」
「ッ!」

リュークの話を聞いたシグリッドが、()(さま)封筒を開けると、中から、押印(おういん)された招待状のようなカードと共に、二つ折りにされた手紙が出て来た。
その手紙に目を通していく彼の横顔が、文字を追う(ごと)(けわ)しさを増しているのを見て、マデリアは不安げに声を掛ける。

「シグリッド…」

そして、読み終えたシグリッドは、沸々(ふつふつ)()く怒りを(おさ)えようと、その手紙をぐしゃりと(にぎ)り締めた。
彼の様子を見て、マデリアを始め、マザーソーニャや子供達も不安げに(まゆ)を下げると、シグリッドは謎の手紙について低い声音(こわね)で明かした。

「これは…『タワーレース』の招待状です」
「タワーレースだと!?あの、ホープタワーを会場に開かれているという、富裕層の娯楽(ごらく)競技の事かね?」

マデリア院長が驚き目を見開いて問うと、シグリッドは小さく(うなず)いた。

「はい。アイリスは、その開催者の元に連れ去られたようです」
「はあ?!アイリス姉ちゃんと、その、なんたらレースっていうのと、何の関係があるんだよッ!」

リュークが一際(ひときわ)声を大にすると、良くない事が起きていると察した他の子供達は泣き出してしまった。
何故アイリスを連れ去ったのか理由の分からないシグリッドは首を左右に振ると、院長とマザーに頭を下げた。

「マデリア院長、マザーソーニャ、すみません。折角食事に誘って頂いたのに、こんな事になってしまって…」

不安げな顔のマザーが祈るように両手を組み、シグリッドを見上げた。

「そんな事は気にしなくとも良いのです。シグリッド…どうか、あの子を、アイリスをお願いします!」

シグリッドは(うなず)き、その場を駆け出すと、一度自宅で身支度を整えてから、一路(いちろ)、ノアトーン城下町を目指した。



―――――― その後、シグリッドが馬を飛ばして目的地に到着したのは一日半後の早朝の事。

城下町に昼間のような(にぎ)わいはないものの、商人が荷を運ぶ姿がちらほら見える。
大通りを馬で駆け上がり、彼が訪れたのは貴族の住まう上流地区だった。

一般地区と上流地区は高い(へい)(へだ)たれており、門番が入場を厳しく取り締まっている。
シグリッドは手近な(さく)に馬を(つな)ぎ止めると、門番の元へと歩み寄った。

「何者だ。通行許可のない者はこの先へ通す訳にはいかんぞ」

がしゃり、と音をたて、剣を構えた門番二人が怪訝(けげん)な顔でシグリッドを見遣(みや)る。

「タワーレースに招待された者だ。主催者の元へ行きたい」

そう言ってシグリッドが差し出した招待状に目を落とした門番二人は、主催者の印があるのを確かめると、互いに顔を見合わせ、すっと構えを解いた。

「その朱印(しゅいん)は確かに…。客人、失礼だが、この先へ行かれるならば、持参している武器はこちらで預からせて頂く」

門番の一人がそう言いつつ、シグリッドが背負う、布に包まれた槍を一瞥(いちべつ)する。これに歯向かう事なく(うなず)いたシグリッドは、大人しく門番に武器を差し出した。

腕に覚えのある者が自由に参加を許可されたタワーレースでは、主催者が直々に走者を招待する事自体が(まれ)で、招待状を持つ者は主催者の『客人』として認識されている。
門番達は、その招待状を持っていたシグリッドを不審(ふしん)に思う事なく門を開いた。

そして、門を(くぐ)った先に見えて来たのは、一般地区とは違い、整然とした街並み。

どこを見ても草花が咲き乱れる庭付きの館ばかりで、華やかさの中にもどこか厳格さをも感じられる。

シグリッドは迷うことなく馬を走らせると、程無くして、とある館の門前で立ち止まった。

「…」

怒り(あら)わでもない、無機質(むきしつ)な表情で彼が呼び鈴を鳴らせば、広い庭の奥に見える館から、一人の青年と、用心棒であろう黒服の男二人が姿を現した。

青年はシグリッドの姿を認めるなり、軽く手を上げて微笑む。

「やあ、久しぶりだな、シグリッド!」

警戒する事なくこちらへ歩み寄って来る青年は、用心棒二人に目配せし門を開けさせる。
シグリッドは、開いた門を潜り、(うつむ)き気味にゆっくり歩き出すと、にこやかに笑む青年の元へと向かった。

「シグリッド、お前が騎士団を辞めて三年くらいか?今ではすっかりノアトーン騎士団も変わって…ッ!」

そう青年が言うが早いか、歩む速度を上げたシグリッドは、今まで(おさ)えていた感情を解放し、(けわ)しい表情で拳を振り上げると、そのまま青年を(なぐ)り飛ばした。

地面に尻を着いて倒れてしまった青年が、殴られた(ほお)を押さえると同時、用心棒二人は腰の剣を引抜きシグリッドの首元へ突き付ける。

退()けッ!」

と、青年が声を上げれば、用心棒はゆっくり武器を下ろした。

シグリッドの首元には(わず)かに血が(にじ)んでいたが、そんな事も意に介さず、怒りを抑えておけないシグリッドは、青年の胸ぐらを(つか)怒声(どせい)を上げた。

「妻はッ!アイリスはどこだッ!」

そう言ったシグリッドの低い声音は、青年の耳に恐ろしく響いた。
(するど)(にら)み付けて来る彼の瞳に居たたまれなくなった青年は、どうにか相手を(なだ)めようと恐る恐る口を開いた。

「お、落ち着け、シグリッド。お前が怒るのも無理は無い。だが、俺の話を…」
「ゲールッ!テメェの話しなんかに興味はねぇッ!どんな理由があろうと、アイリスに手を出した事、絶対に許さんッ!」

シグリッドが怒りに震える拳を今一度振り上げた所で、聞き慣れない声がその場に響いた。

「それ以上の手出しは(ひか)えて貰おう、シグリッド・ジャンメール殿」

拳を構えたままのシグリッドが顔を上げれば、そこには鼻下と(あご)(ひげ)(たくわ)えた品の良い男の姿があった。

「父上…」

青年ゲールが(つぶや)くように言うと、シグリッドは現れた男を(にら)むように見据(みす)える。
ゲールの父は、それに(あせ)るでもない、至って涼しげな顔で続けた。

「貴殿に招待状を出したのはこの私だ。息子に手を上げるのは筋違いというもの」

シグリッドは、ゲールの胸元から手を離し解放すると、相変わらず低い声音(こわね)で答えた。

「現役騎士ならいざ知らず、俺と面識のないアンタが、騎士団を辞めた俺に、わざわざこのくだらんレースの招待状を寄越(よこ)す理由はない。考えられるのは、ゲールが親父のアンタを使って何か(たくら)んでるって事だ」
「ははは、随分(ずいぶん)と察しの良い男だ。ゲール、お前が勝負を挑みたい相手とは、なかなかに手強(てごわ)そうではないか」
「勝負だと?」

勝負の意味を理解出来ず、シグリッドは怪訝(けげん)な顔で(つぶや)いた。
その(かたわ)らで、ゲールはゆっくり立ち上がり着衣(ちゃくい)を整えると、申し訳なさそうな表情でシグリッドに頭を下げた。

「シグリッド、まずは奥方を突然 (さら)った事は()びる、すまなかった。だが安心してくれ、手荒な真似は一切していない。その身の安全も保証する」
「詫びた所で許すつもりはない。アイリスを今すぐ返して貰おう」

冷たく言い放つシグリッドに、ゲールは少し(うつむ)き首を左右に振った。

「それは、できない」
「ゲールッ!」

今一度、怒声(どせい)を上げたシグリッドに向けて、今度はゲールの父親が答えた。

「貴殿の妻は、今やこの町にはおらん」
「ッ!」

次いでゲールがアイリスの所在を明らかにした。

「奥方は、ホープタワーの最上階にいる。フローリカと共にな」
「何だと…魔物の巣窟(そうくつ)と化したホープタワーの最上階に…何故、そんな危険な場所にアイリスをッ!」
「お前の推察通り、俺が父上に頼んでレースの招待状をお前に送った。こうでもしなければ、お前は俺との勝負を受けてはくれないだろうと思ってな」
「さっきから、勝負、勝負と、何を言って…」

ゲールはここで、今一度深く頭を下げると、シグリッドが思いもしない言葉を吐き出した。

「フローリカを()けて、俺と勝負をしてくれッ!シグリッド!」
「はあッ!?」

ノアトーン第二剣騎士団所属のゲール・レーン。

彼は、フローリカとのやり取りを思い出しながら、引き()った顔のシグリッドに話して聞かせた。


―――――これは、数週間前の騎士団詰め所での出来事である。

「フローリカ、俺と、寄りを戻す事、考えてみてくれたかい?」
「はあ…しつこいわよ、ゲール。何度も言わせないで。私、貴方と寄りを戻すつもりはないから」

詰め所の中庭。鍛練(たんれん)の合間に汗を(ぬぐ)いながら答えたフローリカの声音は冷たかった。

何度迫っても彼女から出る言葉はいつも己を否定するもので、ゲールは(まゆ)を下げると、(つぶや)くように続けた。

「そんなに俺は、頼りないか…」
「貴方が頼りない訳じゃないわ?あの人の存在が大きいだけよ…」

フローリカがそう言って睫毛(まつげ)を伏せると、ゲールはある人物の姿を脳裏(のうり)に描き、嫉妬心(しっとしん)を燃やした。

「あの人というのは、シグリッドの事か…」
「…」

これに肯定(こうてい)否定(ひてい)もしなかったフローリカだが、この後に続く彼女の言葉は、それを肯定しているようなものだった。

「それだけじゃないわよ、ゲール。私、自分より弱い男に興味はないの。なんならここで私と手合わせしてみる?貴方が勝てたなら、考えてあげなくもないわ」
「俺は、例えどんな理由があろうと、好きな女に手を出すような真似はしたくない」
(あき)れた。そういう所もごめんよ。私は女である前に騎士なの!同等に扱って欲しいものね!」
「フローリカ!」

ゲールが、去って行こうとする彼女の手を咄嗟(とっさ)(つか)むと、フローリカは(まゆ)(ひそ)めて、その手を振り(ほど)いた。

「いいわ、だったらこうしましょう?貴方がシグリッドと何らかの勝負をして、彼に勝てたなら、考えてあげる」
「なッ…無茶を言うな!シグリッドは(すで)に騎士団を去った男だぞ!一般人と勝負など、そんな事が出来る訳…」
「あら、貴方、シグリッドに勝つ自信がないからそう言ってるんでしょう?」
「そ、そんな事は…!」

シグリッドが騎士団にいた時分、何度か手合わせもした仲だが、ゲールは一度も彼から一本取る事は出来なかった。
そんなゲールの自信のない様子が見て取れたフローリカは、呆れた様子で溜め息を吐いた。

「シグリッドは、スケベで無神経な、どうしようもない人だけど…戦闘センスだけは、私を上回ると認めているわ。だから、そのシグリッドに勝つ事が出来たら、貴方の事、考えてあげる」
「フローリカ…」

勝負と言われただけで、武器を直接合わせるとは言われていない。ゲールは、はっと何かを思い付き、真剣な瞳でフローリカを見詰めた。

「どんな勝負でも、いいんだな」
「ええ、構わないわ。すっかり平和ボケしてしまったシグリッドが、貴方との勝負を受けてくれるとは思えないけれどね」

そう吐き出して(きびす)を返したフローリカの背を見詰めながら、ゲールは、今回の計画を(くわだ)てた。
全ては、意中の女性を振り向かせたいばかりの(はかりごと)だったのだ。


フローリカとのやり取りを話して聞かされたシグリッドは、何の関係もないアイリスの身が、今も危険に(さら)されている事を思えば、怒りを増すばかりだった。

「そんな…そんなくだらない事の為に、アイリスの身を危険に晒してるっていうのかッ!」
「くだらない事ではないッ!俺は本気なんだッ!フローリカの事を本気で取り戻したいと、そう思っているッ!」

ここでゲールが、強く真っ直ぐな瞳でシグリッドを見詰めて続ける。

「シグリッド、お前から見ればくだらない事かもしれん。だが、このような暴挙(ぼうきょ)に出てでも、お前に勝負を挑みたかった。タワーレースで、俺とお前、どちらが最上階に先に到着するか…頼むッ!俺と、勝負をしてくれッ!」

シグリッドの目の前で、ゲールは土下座(どげざ)し、地面に(ひたい)(こす)り付けた。

貴族の出身であるゲールは、高貴でそれなりにプライドも持ち合わせた人物である。その男が、一人の女に対する真剣な想いを、情けない姿を晒してまで己に告げた事を考えれば、シグリッドは、無碍(むげ)に彼の申し出を断る事が出来なくなってしまった。

「…妻の身の安全は保証すると言ったな」
「ああ、フローリカ含め、父が雇った用心棒が数十名、奥方の(そば)にいる」

本当は今すぐにでも妻の元へ向かいたい。シグリッドはその気持ちを(おさ)えつつ(きびす)を返した。

「もし、妻の身に何かあったら、俺は迷わずお前の首を()ねる。覚悟しておけ」
「ああ、百も承知だ」

そうして、その場を去ったシグリッドは、ある人物と礼拝堂で落ち合う約束を取り付けた。



――――― 時は冒頭(ぼうとう)に戻り、その日の夕暮れ時。

妻の無事を願い、礼拝堂で項垂(うなだ)れていたシグリッドの元に、待ち合わせていた人物が姿を現した。

「シグリッド、待たせたな」
「ペレス団長」

立ち上がって頭を下げたシグリッドに、ペレスは彼の肩を軽く(たた)いて、直るよう(うなが)す。

「話しはゲールから聞いている。とんでもない事に巻き込まれたな、奥方も、お前も…」
「ゲールのやった事はどうあっても許せませんし、直ぐにでもアイリスを取り戻しに行きたい。ですが、奴の本気を垣間(かいま)見た時に、俺は、この勝負を断る事が出来ませんでした。男として(ゆず)れない何かを貫き通そうとするゲールの思いに、純粋に(こた)えてやりたいと、そう思ったんです」
「シグリッド…」
「勿論、アイリスの身の保証がなければ、こんな勝負、受けてはいませんけど。やるからには、アイリスの為にも一刻も早く最上階を目指します。手加減なんかしてやるつもりもないですしね」
「ふむ。最上階には観客もいるし、今年も警備は万全にしてある(はず)だ。奥方の身の安全は、ゲールが言うように保証されているだろう。それに、今回のタワーレースには、フォラス王子も見物に行かれる。警備はいつも以上に厳しくしてあるだろうからな」
「フォラス王子が!?」

ブールが王位を継承してからというもの、自ら騎士団を動かしては方々(ほうぼう)の領地に(おもむ)き、何事も力で(ねじ)じ伏せようとする戦闘狂の王子フォラス。

その傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な人柄が、昔からどうしても受け入れ(がた)かったシグリッドは、彼の話を聞いて(けわ)しい表情を浮かべた。

一方のペレスも、今回の王子の参加について、どこか嫌な予感を覚えていた。

「どういうつもりか知らんが、護衛に己の率いる第一剣騎士団を連れてな。ただの物見(ものみ)遊山(ゆさん)で終われば良いのだが…」

様々な懸念(けねん)がされる中、ここで、ペレスは布に包まれた、シグリッドの身の丈以上ある何かを差し出した。

「受け取れ、シグリッド」

シグリッドは、それをペレスから受け取ると、(くる)んだ布を取り去った。

「まさか、またこれを手にするなんて、思ってもいませんでしたよ」

それは、騎士団にいた頃、シグリッドが魔物(まもの)討伐(とうばつ)には必ず持って出ていた(やり)だった。
(するど)く光る切先、美しい黒龍(こくりゅう)の装飾が施された(つか)を握り、シグリッドはその感触を(なつ)かしんで目を細めた。
そんな彼の姿を見て、ふっと笑みを浮かべたペレスが答える。

「対人ではないのだ、どんな魔物が巣食(すく)っているか分からん。武器は良い物を使うに越した事はないだろう。ゲールも、それなりの物を持って行ったぞ」

ペレスは、軽く槍を振るうシグリッドを見て、騎士団で共に背を任せあい、魔物相手に戦った日々を思い出しながら続けた。

魔槍(まそう)ヴァジュランダ。対魔物用に作らせた、お前の愛槍(あいそう)だ。やはり、その手に馴染んでいるな。理不尽(りふじん)極まりない勝負ではあるだろうが、怒りを発散させるつもりで、一暴れして来い、シグリッド」
「はい、ありがとうございます。ペレス団長」

そして、シグリッドがペレスと落ち合っていた一方、ホープタワーの最上階には、翌日のレースに向けて、観客席やステージの準備に追われるタワーレース委員会のスタッフ達の姿や、警備で雇われた傭兵(ようへい)達の姿、そして、飛空艇(ひくうてい)で連れて来られたアイリスと、ゲール達の勝敗の行方を見届けようとするフローリカの姿があった。

アイリスは、この塔がどんな場所であるかを聞かされてからというもの落ち着かず、不安げな表情で暮れかけた空を見上げた。

「シグ…」

そんな彼女の横顔を見て、(そば)にいたフローリカが声をかける。

「アイリスさん、ここが魔物の巣窟(そうくつ)だと聞いて、恐ろしい?」
「フローリカさん…」

問い掛けられたアイリスは小さく(うなず)いて答えた。

「こんな薄気味(うすきみ)悪い所、初めてですし…恐ろしくないと言ったら嘘になります。でも、本当に恐ろしいのは、シグリッドが命を危険に(さら)してしまう事の方で…」

ゲールがフローリカを振り向かせる為の勝負とだけ聞き、まさかシグリッドが話の背景にあるなど思いもしていないアイリスは、何故、このような危険な場所を選んだのかと、ただただ、夫の身を案じて言葉を継いだ。

「こんな危険な勝負をするしか無かったんでしょうか?勝負をするなら、もっと他に安全なものがあった(はず)です!」
「それは、例えばどのような?」

(いた)って冷静な声音でフローリカに問いで返されれば、アイリスは、少し考えながら答えた。

「えーと…そうですね…例えば、レモンスカッシュ一気飲みとか、パン食い競争とかー…」
「そんな勝負で、私の将来を左右して欲しくはないのですが…」

彼女の答えに(あき)れるしかないフローリカが半眼で突っ込みを入れると、アイリスは苦笑いを浮かべた。

「で、でも、その方が誰も傷付かなくて良いかなと…」
「本当、甘い人ね。そういう所、(すご)苛々(いらいら)するわ…」

第二槍騎士団だけに留《とど》まらず、ノアトーン騎士団全体の中でもトップを争う実力を持っていたシグリッドが、何故、このような、間の抜けた女性に()かれてしまったのかと、ずっと理解に苦しんでいたフローリカは、思わず心の声を小さく()らしてしまった。

しかし、彼女の声がよく聞き取れなかったアイリスは、困ったような笑みを浮かべて控えめに問い返した。

「ごめんなさい、なんて(おっしゃ)られたのかよく聞こえなくて…」
「いいえ、何でもありませんわ、お気になさらず」

ふい、と顔を()らしたフローリカの横顔が不機嫌なものに見えたアイリスは(まゆ)を下げると、ここへ連れて来られる前から気になっていた事を問い掛けた。

「フローリカさんは、ゲールさんの事を、本当はどう思っていらっしゃるの?」

質問を受けたフローリカは、アイリスとは目を合わせずに、迷う事なく答えた。

「同志かしらね」
「同志…?」
「ええ、騎士として、同じ道を歩む仲間。残念ですが、今の私にとって彼はそういう存在なのです。私が恋心を(いだ)く相手は、他におりますので」
「まあ!フローリカさん、今、想い人がいらっしゃるの?」
「ええ…」

それがシグリッドだとは口に出して言えないフローリカは、相変わらずアイリスと目を合わせずに続けた。

「だけど、ゲールが私の想いを揺さぶる程に、彼の存在を上回ったなら…」

その時は、己の心変わりもあるかもしれない。だが、今はまだ、シグリッドが妻を(めと)っていようとも、彼への想いが諦めきれないフローリカは、(うれ)いた瞳のまま(うつむ)いた。

そんな彼女の心中を察する事は出来ず、ただゲールの恋を応援したいばかりのアイリスは、フローリカに別の想い人の影ある事を知り、これは前途(ぜんと)多難(たなん)な恋だと眉を下げた。



―――――― そして、翌朝。

タワーレースは予定通りに開催された。

塔の入り口に続く階段下には、我こそはと集った腕自慢の戦士達がスタートの合図を待って、武器や防具を念入りに確認する姿や、身体を軽く動かして温める姿が見られた。

一方、走者と観客を分けるロープの向こうでも、このレースで博打(ばくち)を行う者、はたまた純粋に戦士が戦う姿を見て楽しみたい者と様々で、()しの走者を激励(げきれい)したり、ライバル走者を(けな)したりと、スタート前から大きな盛り上がりを見せていた。

そんな人垣の中に作られた、巨大な円柱形のステージ上には、縦横二十メートルの大きさを(ほこ)る鏡、『魔鏡(まきょう)』が用意された。これは、走者の様子を鏡面(きょうめん)に映せる、『魔導具(まどうぐ)』という代物(しろもの)である。

この世界には、『七元素(ななげんそ)』と呼ばれる、目には見えない力が働いており、それは太古(たいこ)の昔から、世界そのものを形作る力と言われ、伝承されてきた。

人々は、その不思議な力、七元素を『魔力(まりょく)』と呼び、魔力を具現化(ぐげんか)する技法の事を『魔法』と呼ぶ。
そして、具現化に必要な道具が、この『魔導具』と呼ばれる物で、これを使いこなすには、素質とそれなりの修練が必要だった。

それらの(ことわり)を理解し、魔導具によって魔法を使役する彼らは『魔導師(まどうし)』と呼ばれ、今日(こんにち)でも様々な場所で活躍している。

まさに、このレースの運営委員にも魔導師が現存しており、多くの魔導具を利用して、年に一度のこのショーを盛り上げて来た。

ステージ上に現れた、紳士服を(まと)うシルクハットの男もその一人で、彼は、『メガホン』と呼ばれる拡声の魔導具を介して、興奮冷めやらぬ観客一同に向けて声を上げた。

「レディース、アンド、ジェントルメーン!お待たせ致しました!今年も、年に一度のお楽しみ!タワーレースがいよいよスタート致しますッ!司会はお馴染み、アディソン・ベローズ!そして、今年度の主催者は、年商十億クリソスの富豪、ニコラット・レーン!」

紹介と共に拍手(はくしゅ)喝采(かっさい)の中、ステージ上に現れたのは、昨日シグリッドと顔を合わせたゲールの実父だった。

ニコラットは司会のアディソンから差し向けられたメガホンを通して、挨拶を続ける。

「皆さん、今年も夢と希望のタワーレースへようこそ!何と、今回の賞金総額は一億クリソス!走者の皆さんは、己の力を出し切り、全力で疾走して頂きたい!また、レース賭博(とばく)も同時に開催いたします!会場にお集まりの皆様も、一位から三位までの走者を予想し、一攫千金(いっかくせんきん)の夢を、是非ともその手で(つか)んで下さい!」

走者、観客の双方(そうほう)から大歓声が上がる中、ニコラットは大きく手を振りながらステージを後にした。
アディソンは彼を見送ると、続いてステージ上にずらりと並んだ、白いローブ姿の数十名の魔導師に目を向けて続ける。

「ミスターレーン!ありがとうございました!さて、レースの模様は、いつものように、我がタワーレース運営委員会の魔導師達によって使役されます、魔導具『チェイサー』が走者を追跡し、こちらの魔鏡に映し出してくれます!」

チェイサーと呼ばれたその魔導具は、成人した人の目の大きさくらいだろうか、(あわ)い緑の光を発する球体の浮遊物が、ふわふわと会場を飛び回り、魔鏡にいくつか分割された映像が映し出された。

全ての準備が整い、腕時計の針が定刻を指し示したのを確認したアディソンは、いよいよスタートの合図を切ろうと一際(ひときわ)大きな声を上げた。

「さあ!それでは行ってみましょう!タワーレース、開幕ッ!」

魔導師とは別に、ステージの上に並ぶ、弾幕砲(だんまくほう)を持った五人の男が、それを天に(かか)げる。

彼らを見て身構えた走者達の群れの中、シグリッドとゲールが互いを一瞥(いちべつ)しあった所で、一斉に引き金が引かれた。

どん、と大きな音と共に、五色の煙を引きながら弾は天へ向かうと、花火を散らす。
それと同時に走者達はそれぞれの武器を手に怒涛(どとう)の勢いで駆け出した。

「アイリス、待ってろよ」

魔槍(まそう)を握り締めたシグリッドは一人呟《つぶや》き、高く(そび)える塔を見上げながら、入り口を(くぐ)り抜けた。


――――― ホープタワー内部。

上へと向かう幅広い階段を、我先にと駆け上がって行く走者達。
魔物の巣窟(そうくつ)と言うに相応(ふさわ)しい程、各フロアには様々な魔物がそぞろ歩いていた。

手持ちの武器で戦う者、己の拳一つで戦う者、はたまた、魔導具を使役(しえき)する者。走者も実に様々で、戦いを()けて先へ進む者もいれば、戦い自体を楽しんでいる走者もいた。

そんな中で、金目当ての軽い気持ちのまま参加した走者の中には、下層で魔物に恐怖し、逃げ帰ろうとする者も多く見られた。

「ひぃいいッ!あっち行けーッ!」

それは、この青年も例外では無かった。

両手に剣を持った青年は、『トロール』という巨体と怪力を持ち合わせた魔物三匹を前に、(おび)えて後ずさっていた。

「グオオオオオオッ!」

己の縄張(なわば)りに侵入されたトロールが拳を振り上げ憤怒(ふんぬ)する様を間近に、青年は恐怖で腰を抜かしてしまう。

そこへ、駆けて来たシグリッドは、人を襲おうとしているトロールの姿をその目に(とら)えると、槍を振り、一歩踏み込んで切先を突き出した。

(つらぬ)け」

その言葉と共に、(あわ)い光を(まと)った(やり)は、黒い針のような光を無数に発生させ、トロールの体躯(たいく)を貫いた。

「ギャァアアアッ!」

悲鳴を上げた一体のトロールが(はい)となって消えると、次いで残ったトロールに間合いを詰めたシグリッドは地を()って飛び上がり、敵の頭上から魔槍を投げ放つ。
その頭部に勢い良く槍が突き立つと、痛みに暴れるトロールは、ずしん、と音を立てて仰向(あおむ)けに転がった。

(くだ)け」

槍に向けて右手を(かざ)したシグリッドが低い声音で吐き出すと、その言葉通り、刺さった槍は黒光(こっこう)を放って爆破し、トロールを木端微塵(こっぱみじん)にしてしまったのである。
そして、敵を撃破した槍は、地面へ落ちる事なく、回転しながら一瞬の間に、シグリッドの右手に吸い寄せられるよう戻って来た。

着地したシグリッドは、襲いかかってくる残り一体のトロールの前で体を(ひね)り、槍を流れるように振り、連撃(れんげき)を加えて巨体を裂いていく。
シグリッドは最後にトロールの足元へ槍を突き立てると、再び口を開いた。

()がせ」

すると、今度は地面から無数の黒い雷光が天向けて走り、敵を黒く焦がして灰とさせた。

あっという間に敵の姿が跡形も無くなると、青年は安堵(あんど)からか、それとも圧倒的な力の差を持つ戦士の出現に驚いてか、尻を着いて床に倒れ、(おび)えた目でシグリッドを見遣(みや)った。

「う…あ…」

シグリッドは、地に立てた槍を引き抜いて(にぎ)り締めると、青年に振り返り、(けわ)しい顔で口を開いた。

「上へ行く程、魔物の数も、魔物の強さも増していく。命が()しいなら、ここで引き返した方が良い」
「あ、あ、あり…がとう…」

震える声で礼を告げた青年を一瞥(いちべつ)し、シグリッドは次のフロアに続く階段を駆け上がった。

その背中を追って、青年の(そば)で次に立ち止まったのは、シグリッドより少し遅れをとっているゲールだった。

「騎士団を去り、パンなど焼いてのんびりしているから、腕もなまっているだろうと期待していたのだがな、とんだ誤算(ごさん)だったようだ…」

何の事を言っているのか分からず目を(またた)かせる青年を一瞥したゲールは、ふっと口許(くちもと)に弧を描くと、彼に離脱(りだつ)(すす)めた。

「助けてくれる者など本来ならこのレースにはいないが、君は彼に会って命拾いしたな。今なら引き返しても大した魔物は残っていないだろう。早く立ち去りなさい」

そう一言告げて、ゲールもシグリッドの後を追いかける。
次々と後ろからやって来る走者達の背を見送って、青年は項垂(うなだ)れた。

「うん…もう、二度とタワーレースには参加しないよ…」

今更ながら、己が場違いな所にいるのだと理解した青年は、すっかり意気消沈(いきしょうちん)してしまい、(つぶや)くように一人ごちたのだった。



―――――― レース開始から(しばら)くの時間が過ぎた頃。

塔の天辺(てっぺん)で不安なまま一夜を明かしたアイリスは、ろくに眠る事ができず、少し疲れた顔で両手を組み祈り続けていた。

「神様、どうか、シグリッドが無事でありますように…」

昨日に比べ、最上階には観客が増え、(にぎ)やかさがあった。
その(ほとん)どが飛空艇を利用できる貴族達だが、中には今日のレースの為に大枚(たいまい)をはたき、走者のゴールの瞬間を見ようとやってきた一般地区の民も見えるようだった。

地上と同じく、『魔鏡(まきょう)』を用意された中央のステージでは、楽しげに走者の様子を見守る司会者アディソンの姿。

時折、鏡に映るシグリッドの姿を見ては安堵(あんど)の息を()らすアイリスに、隣で勝負の行方を見守っているフローリカが口を開いた。

「アイリスさん」
「はい?」
「貴女は、シグリッドに戦いから離れて欲しいようですけど、その想いがシグリッドの本心を押し込めさせていると、考えた事はございませんの?」
「え…?」

騎士団にいた頃と変わりなく、魔槍(まそう)を手に戦うシグリッドの姿は、フローリカの目に強く、輝かしく映った。しかし、彼女はシグリッドが騎士団から離れた事で、その美しい輝きを失ってしまわないかと、日々考えるばかりだったのだ。

「彼は、騎士である事に(ほこ)りを持ち、その技で『民を守る剣』とならん事を目標としていました。その目標を(かか)げ、戦っていた彼の姿はとても輝いていた。そして強くあれた。ですが、騎士を辞めた事で、いつか、その輝きを失ってしまうのではと、私は不安に思っています。貴女は、貴女自身のせいで、シグリッドが騎士の誇りを失う事になると、そう考えた事はございませんの?」
「…」

そんな質問を投げ掛けられて、アイリスは(まゆ)を下げると、胸元で拳を握り(うつむ)いた。
答えないのは自覚があるからだと受け取ったフローリカは、彼女の煮え切らない姿に苛立(いらだ)った様子で話を続けた。

「残り(わず)かになってしまったアルト派の私達にとって、騎士としての誇りを誰よりも強く持っている、シグリッドという存在はとても大きいの。この国の騎士の誇りを取り戻す為、そして、彼が騎士としての誇りを持ち続ける為にも、私は、彼が騎士団に戻る事を切望(せつぼう)しています」
「フローリカさん…」
「貴女が、シグリッドの本心を押し込めさせて、騎士としての彼を殺してしまう前に、私は、彼の手を取り、再びノアトーンへ連れ戻したいと思っているわ!」

このまま平凡な日常に慣れて行けば、シグリッドは間違いなく後悔する。そんな風に思っていたフローリカは強く言い切ると、顔を上げたアイリスを(するど)い瞳で見遣(みや)った。
しかし、アイリスは彼女の強い瞳に(ひる)む事なく、真っ向からフローリカの想いを受け止めて答えた。

「私のせいで、シグリッドがやりたい事を出来ずに後悔してしまうのは、それは、あってはならない事だと思っています」
「だったら、何故、騎士団へ戻るよう背を押してあげないのッ!?」
「それは…私が、シグリッドを愛しているから」

何を言っているのかと、フローリカはアイリスの心情を理解出来ずに(くちびる)()んだ。アイリスは、そんなフローリカから目を()らさずに、力強い口調で続ける。

「何度も、何度も思いました。私のせいで、シグリッドは(あこが)れた騎士の道を諦めてしまったのだと。きっと彼は後悔しているだろうと…。だけど、シグリッドはこう言ってくれたんです」


――――― 騎士団へ戻ったなら、俺は、また大切なものをこの手から(こぼ)してしまうような気がする。だから、騎士を辞めた事に後悔は無い。これが、俺の正直な気持ちだよ。アイリスも、自分の想いを押し込めないで、どんな想いでも俺に伝えて欲しい。そうやって二人で、二人が一緒にいられる道を決めて行こう


「…ッ」

二人が一緒にいられる道を…。その言葉を聞いたフローリカの胸は(さわ)がしくなった。燃える嫉妬心(しっとしん)(おさ)えるように彼女の拳は固く握られる。
そんな彼女の気持ちを推し量れる(はず)もないアイリスは、何飾る事なく素直な想いをフローリカにぶつけた。

「シグリッドは、ずっと真っ直ぐに私と向き合っていてくれたのに、私は、向き合わず、自分に嘘をついていた。だけど、ちゃんと思っている事を伝えて良いのだと解ってからは、私は嘘をつくのをやめました。戦って欲しくない、(そば)にいて欲しい。その想いを伝えても、シグリッドが騎士団に戻りたいと本気で言ったなら、その時は、お互いに納得いくまでぶつかって答えを出したい。そうやって、二人で、二人が一緒にいられる道を決めて行きたいから」

アイリスが迷いのない表情で言い切ると、彼女の話を聞き終えたフローリカは、二人の間に見えずとも強い繋がりがある事を感じて悔しげに(うつむ)いた。

アイリスとフローリカがそんなやり取りをしている間にも、続々とゴールして来る走者達の姿を迎えて、観客席からは大歓声が上がる。

騒がしくなった終着地点で、アイリスが走者の中に夫の姿を探し、視線を(めぐ)らせていると、聞き慣れた声が彼女を呼んだ。

「アイリスッ!」

呼ばれた方に振り向けば、アイリスは、客席の方へと駆けて来る、魔槍を背負った傷だらけのシグリッドの姿を見付けて、人混みを()き分ける。
そして、境界線のロープを(くぐ)ると、アイリスは駆け出して夫に飛び付いた。

「あなた!」

その妻の体を受け止めて、強くその腕に抱き締めたシグリッドは、余裕の無い声音(こわね)で問い掛ける。

「アイリス!無事か?怪我(けが)はないか?」
「ええ、私は平気!それより、あなたの方よ!大丈夫なの?」

少し体を離して不安げに見上げて来る妻の顔には少し疲れが見えるようで、恐らく心労(しんろう)で眠れてもいなかったのだろうと、シグリッドは不甲斐(ふがい)なさそうに目を閉じ、再び強く妻を胸に抱き締めた。

「ごめんな、怖い思いをさせた。俺が(そば)にいてやれば、こんな事にはならなかったのに」
「もーう、私の事より、あなたはどうなのって聞いてるのにー」

あまりきつく抱き締められるもので、アイリスが苦しげに(うめ)く一方、少し遅れて到着したゲールがフローリカの元に歩み寄って来ると、彼女は、結果はどうであれ、まずは完走したゲールを(ねぎら)って声をかけた。

「ゲール、お疲れ様」
「ああ、最後まで見ていてくれてありがとう、フローリカ。残念だが、完敗だ…シグリッドは一位も狙えただろうに、何人もの走者を助けた事で遅れて、それなのに、まだ俺より先を行っていた。騎士団を辞めて、腕を落としていると思っていたのは間違いだったよ」

ゲールは、抱き締め合うシグリッドとアイリスを見詰めて、どこか清々(すがすが)しい表情で続けた。

「シグリッドは、守りたいものがあるから、強くあれるんだな」
「そうね…悔しいけど、そうなのかもしれないわ」

ゲールの言葉に同意するしか、今は他に言葉が見付からないフローリカは、悲痛な表情でシグリッド達から目を()らした。

フローリカ達がそんな会話を交わしている中、アイリスは傷だらけの夫を見上げて、彼の(ほお)に手を伸ばすと、申し訳なさそうに(まゆ)を下げた。

「ごめんなさい、あなた、私が(さら)われたりなんかしたから…」
「何言ってるんだ、お前が謝る事ないだろ」
「でも、私がちょっと寄り道して、雑貨屋さんを(のぞ)かなかったら、黒い服の人達に出くわさなかったかもしれないし…」
「おい…お前、家を出る時に、寄り道はしねぇって言ってなかったか?」
「あ、うふふ…」
「やれやれ…」

しまったと言わんばかりに口許(くちもと)を押さえたアイリスが、ばつが悪そうに笑えば、シグリッドは、仕方なさそうに笑みを浮かべて続けた。

「まあ、寄り道抜きにしても、お前は拐われてたさ。ゲールの(くわだ)てがあった限りな」

だけど、夫はこうして(けわ)しい道程(みちのり)を越えて迎えに来てくれたと、アイリスは胸元で両手を祈るように握ると、ほう、と恍惚(こうこつ)な表情で息を漏らした。

「ありがとう、あなた、助けに来てくれて!ああ…まるで小説にあった、塔に(とら)われたお姫様を(うば)おうとする盗賊(とうぞく)の物語のようだわー」
「俺は盗賊か…」

また妻が小説の主人公やヒロインに当て()めて妄想を繰り広げているのだと分かったシグリッドは、思わず突っ込みを入れるも、相変わらず聞こえていない様子のアイリスは一人で盛り上がるばかり。
そんな妻を胸に、()にも(かく)にも最愛の人が無事であった事に心から安堵(あんど)したシグリッドは、ふっと微笑んだ。

(やが)て、制限時間がやって来た事を告げる段幕が空に上がり、花火を咲かせると、競技は終了となった。
完走できた者、()しくもゴール手前で終わりを迎えた者、はたまた魔物に(くっ)してリタイアせざるを得なかった者と、今年のタワーレースも、例年通り、様々な成績を残した走者達全員を(ねぎら)って、司会進行役のアディソンが、魔導具(まどうぐ)のメガホンを使い、祝福の声を上げた。

「走者の皆さん!お疲れ様でしたーッ!今年も熱い戦いを繰り広げてくれてありがとうッ!では、ここからは皆さんお楽しみ、上位三名の発表ですッ!」

一際、歓声が大きくなると、ステージ上ではまず、三位と二位の走者が紹介され、それぞれに銀、銅のメダルと、賞金が授与された。

この時点で博打(ばくち)を行っていた観客達の中では、満面の笑みを咲かせる者と、肩を落とした者と、はっきり二分されていた。

そして、いよいよ、一位走者がステージ上に呼ばれると、アディソンは興奮した様子で口を開いた。

「なんと!今年の一位走者は、前年度も二位という成績を修めた強者、ナングレーくんでしたーッ!」

ナングレーと呼ばれた褐色(かっしょく)肌の青年がステージ上に現れれば、歓声は、また一段と大きく会場に響いた。

ふわり、と舞う追跡魔導具のチェイサーが、魔鏡にナングレーとアディソンを映し出すと、アディソンはメガホンを床に置き、彼の首に金メダルを()げてやる。そして、ナングレーと握手(あくしゅ)を交わせば、チェイサーを通してインタビューを続けた。

「今年は見事な一位獲得!おめでとう!ナングレーくん!」
「ありがとうございます」
「元々は、騎士の道を(こころざ)していたとの話しだけど?」
「はい、ですが、今は騎士にならずとも良かったと思っています。生まれ育った村と家族を守る為だけに、この腕を(みが)いています」

シグリッドは、少し離れた場所に立つ一位走者の青年が、己と同じ守りたい者の為に強くあろうとしているのを知り、共感できるものを感じて、口許(くちもと)に柔らかな笑みを浮かべた。

ここで、司会進行のアディソンは、ナングレーの姿を程近い場所から見守る女性に注目した。

「ナングレーくんには、来月結婚するフィアンセがいるそうです!彼女もずっと、彼を応援してくれていました!さあ、美しいご婦人、ステージへ!」

アディソンの計らいでステージ上に現れた女性がナングレーの(そば)へ駆け寄ると、二人は強く抱き締め合った。

主催者のニコラットは、そんな二人に拍手を送りながら歩み寄り、優勝賞金の小切手をナングレーに手渡す。

と、そこで、祝福の歓声が会場を包む、そんな幸せな空気を()くように、ゆっくり拍手をしながらステージ中央に出て来た、赤い(よろい)(まと)う人物に、その場の誰もが息を飲んだ。

「いやー…ははは!実に素晴らしい!」

愉快(ゆかい)そうに笑うその人物の(かたわ)らで、(よろい)の騎士達が布陣(ふじん)するように立つと、追跡魔導具チェイサーは、彼らの異様な姿を魔鏡に映し出した。
この予期せぬ演出に、司会進行役のアディソンは困惑(こんわく)した表情で口を開く。

「あ、あのー…フォラス王子様、これは一体…」

会場には、しん、とした静けさが降りる。

フォラス王子は一観戦者として静観(せいかん)するだけ、と聞いていたアディソンが微苦笑(びくしょう)すると、フォラス王子は不敵(ふてき)な笑みを浮かべて答えた。

「素直に勝者を(たた)えているのだ。何か問題が?」
「い、いえ、そのような事は…」

顔に笑みは浮かんでいるが、その瞳は(するど)く冷たい。アディソンは、そんなフォラス王子に(おく)すると、同じように困惑しているニコラットと共に下がり(ひざまず)いた。

彼がノアトーン第二王子フォラスと知っていたナングレーとそのフィアンセは、その場に跪き(こうべ)()れる。
そんな二人の姿を一瞥(いちべつ)して、フォラスは立ち上がるように(うなが)すと、相変わらず不敵な笑みを(たずさ)えたまま問い掛けた。

「ナングレーと言ったか?貴様、なかなか筋が良い。どうだ?我がノアトーン騎士団で、その腕を(ふる)って見ぬか?貴様であれば、この俺が率いる第一剣騎士団の一員として迎えてやっても良い」

ナングレーは、(そば)にいるフィアンセを己の後ろに下げて、表情を変えずにフォラスと向き合った。

「折角のお申し出ですが、先程も紹介にあった通り、私には来月結婚を控えたフィアンセがおります。彼女の傍にいる事を第一に考えておりますので…」
「騎士団への入団を断ると?」
「はい。申し訳ございません」

深く頭を下げた青年を前に、フォラスは、どこか残念そうな笑みを浮かべると、首を左右に振って続けた。

「俺の申し出を断るとは、なかなかに(きも)の座った男だ。まあ良い、ナングレーとやら、一位走者が使ったその腰の得物(えもの)、どんな業物(わざもの)か見せてはくれぬか?」

フォラスは、ナングレーの腰に視線を落とし、(さや)に収まった剣を差し出すよう告げた。

「高貴なお方に見せられるような、立派な物ではございませんが…」

ナングレーはそう言いつつ、腰から剣を鞘ごと引き抜き両手で差し出すと、再び(こうべ)()れる。
無数に傷の入った鞘、そして、使い古された剣の(つか)は、これまで彼が愛用して来た年月を物語っている。

フォラスは、それを見詰めると、右側の口角を不気味(ぶきみ)に持ち上げた。

「ほう、確かに…これは下劣(げれつ)得物(えもの)だ」

不穏な空気が流れる中、フォラスが己の腰の剣に手を伸ばそうと身動(みじろ)げば、それに嫌な予感を覚えたシグリッドは、ステージに注目している妻の手を引き、己の胸に抱き寄せた。

「あ、あなた?」

突然抱き寄せられて驚いたアイリスは、夫に視線を上げる間もなく、シグリッドの胸に顔を(うず)めるように抱き締められる。

「見るなッ!アイリスッ」

シグリッドがそう言ったと同時に、ステージからは男の苦痛な悲鳴と、観客席から恐怖に駆られる悲鳴が上がった。

「ぐぁああああッ!」

音をたててステージ上に落ちたのは、無惨(むざん)にも手首から切り落とされたナングレーの両手と、彼の愛剣だった。

「きゃぁあああッ!いやぁああッ!ナングレーッ!」

気が(くる)いそうな痛みに(もだ)えるナングレーの(そば)で、フィアンセの女性も狂ったように泣き叫ぶ。

フォラスは、その様子を見ても(なお)、不敵な笑みを浮かべたまま口を開いた。

「騎士団に入団せぬと言うのなら、貴様のその力は我がノアトーンにとって脅威(きょうい)でしかない。危険の()は早期に摘み取らせて貰おう」
「フォラス…王子…ッ」

(おびただ)しい血を流しながら、ナングレーは(うつ)ろな瞳でフォラスを(にら)んだ。これを意に介さず、フォラスは己の剣を振るって血を飛ばすと、(さや)へ収めながら答えた。

「悪く思うな、これもこの国を(うれ)うがゆえだ。妻を(めと)るのだろう?命を取らぬだけ、ありがたいと思え。まあ、(もっと)も、その手では、女を抱く事も最早叶わんだろうが?」

騒然(そうぜん)とする会場。
シグリッドに視界を(さえぎ)られて何も見えないアイリスは、尋常(じんじょう)ではない周りの様子から、良くない事が起きているという、それだけは察する事が出来、恐怖を覚えて夫を見上げた。

「あなた…何が起こっているの?」

現状を直視するシグリッドの横顔には怒りや(にく)しみのようなものが見え、アイリスは不安げに見詰めた。

「ねえ、あなた…」
(くる)ってる…このままでは、この国は堕落(だらく)する…アルト王が(きず)いた、この国が…」
「シグリッド?」

アイリスの肩を抱くシグリッドの手に力が(こも)る。(わず)かに震える夫の手に気付いたアイリスは、彼を落ち着かせようと、そのまま(まぶた)()せて強く抱き着いた。

(いま)だ悲鳴が収まらない会場で、フォラスは浮遊(ふゆう)するチェイサーに向けて声を上げた。

「これを見ている我がノアトーン王国の民に告ぐッ!腕に覚えのある者は、我が騎士団へその力を献上(けんじょう)せよ!そして、『王を守る剣』となるのだッ!次回より、このタワーレースはノアトーン王国が主催するッ!上位者には無条件で騎士団の入団と、今大会で用意された賞金額の、三倍のクリソスを与えよう!」

大きくざわつきを見せる会場を見遣(みや)り、フォラスは心底楽しげな様子で言葉を継いだ。

「地位と名誉、そして金を手に入れたい強者は(ふる)って参加されよッ!ハハハッ!ハハハハハッ!」

あまりの恐怖で逃げ出してしまった司会者アディソンの姿は(すで)に無く、魔導師達が、意識を失いかけたナングレーの止血に全力を尽くす姿と、泣きわめく彼のフィアンセを一瞥(いちべつ)して、今回の主催者であるゲールの父親ニコラットが(けわ)しい顔で声を上げた。

「フォラス様!そのような話し、我々は聞いておりませぬぞ!」

歩み寄って来た青い顔の主催者に、フォラスは、さも当たり前のように答えた。

「当然だ。今思い付いたのだからな」
「なッ…タワーレースは、我らが長年 (もよお)して来た娯楽競技ですぞ!このように、戦士生命を絶やすような(ひど)い事をするものでは…!」
「黙れ」

ぎろり、と、(にら)み付けられたニコラットは(ひる)み、一歩、二歩と後ずさる。フォラスは再び剣を抜き、その切先をニコラットの首に向けて告げた。

「あまり(うるさ)いと、貴様の価値のないその腕も斬り落とすぞ」
「ひッ…」

フォラスはそう言って、にやりと笑みを浮かべれば、会場を見回し、恐怖で顔を(ゆが)める民達に満足げな様子で(きびす)を返した。

此度(こたび)はなかなかに楽しめた。そろそろ引き揚げるとしよう」
御意(ぎょい)

フォラスが、腕を失ったナングレーに目もくれず、剣を(さや)に収め、その場から歩き出すと、その後に(うやうや)しく頭を下げて続いたのは、ノアトーン第一剣騎士団の面々だった。

列を成して去って行くフォラスと騎士団の一行を、シグリッドは強い怒りを込めて(にら))み付ける。同時に、何も出来ずに見ているしか出来なかった己に苛立(いらだ)ちを覚えて、彼は拳を握り締めた。

こうして、今年のタワーレースは、人々にノアトーン王国の混沌(こんとん)とした現状を示して幕を閉じたのだった。




―――――― その日の夕刻。

フォラスが行った暴挙(ぼうきょ)は城内でも(すで)に話が広まっており、ペレスの耳にもそれは入っていた。

魔槍を返す為に、今一度ノアトーン教会の一室で落ち合っていたシグリッドとペレスは、悲痛な表情で向き合っていた。

「やはり…ただの物見遊山では終わらなかったか」

腕を組んで静かに言ったペレスの一言に、シグリッドは(うつむ)き拳を握り締めた。

「一位走者の青年は、一命は取り留めたようですが、もう、武器を握る事は…」

生まれ育った村と家族を守るために腕を(みが)いている。そう言っていた青年の姿を思えば、シグリッドは胸が締め付けられるようだった。

「あの手で、守りたいものが沢山あった(はず)だ。それなのに、フォラス王子は…あの外道(げどう)は!無惨(むざん)にも戦士から腕を(うば)ったッ!この国は、人々を暴力や恐怖で支配するような(くさ)った国では無かった筈ですッ!アルト王が(きず)いた、人の温もりを感じられる国は、最早ここにはない!何故(なぜ)…何故こんな事に…なってしまったんですか…ッ」

行き場のない怒りがシグリッドを支配する。ペレスは震える拳を握った彼を見て、苦しげな表情で目を閉じた。

「この国がこうなってしまったのは、(あるじ)(いさ)められない、我々騎士団の面々にも責任がある。シグリッド、すまんな…騎士団を辞めて(なお)、国の為にと力を貸してくれるお前の期待に(こた)えられず…」

ペレスは不甲斐(ふがい)なさそうに口許(くちもと)(ゆが)めた。これに、シグリッドは熱くなって、つい語気(ごき)を強めてしまった事を後悔し項垂(うなだ)れる。

「すみません、そんなつもりで言った訳ではないんです」
「分かっている。お前の言いたい事も、感じている事も…。俺も同じ思いだからな」

ペレスは柔らかな笑みを携えて答えると、再び真っ直ぐな瞳でシグリッドを見詰めて続けた。

「アルト王が築いたものは失われつつある。だが、まだ希望は失われていない」
「え?」
「少しずつだが…アーク王子が、動き出しておられるのだ」
「ッ!」

シグリッドは、意外そうな顔で目を見開くと、アルト王の子息(しそく)の中でも異彩(いさい)を放っていた王子の姿を脳裏(のうり)に描いた。

アーク王子とは、ノアトーン王国第三王子の事で、いつも飄々(ひょうひょう)としており(つか)みどころがなく、城にいない事は屡々(しばしば)楽観(らっかん)的で穏健(おんけん)な性格ゆえに、ブール派の騎士からは『腰抜け』と密かに揶揄(やゆ)されている若き王子である。

しかし、そんな腰抜け王子は、第一王女である姉のジーニアスと共に、兄王子達の政策には賛同しておらず、これまで反旗(はんき)(ひるがえ)す日を(うかが)っていたという。

少しの希望でも(すが)りたいシグリッドは、(いや)(おう)でも期待せずにはいられなかった。

「アーク王子が…」
「王子達の中で、唯一、アルト王の意志を継いでおられるのは、アーク王子だけだ。私も、アーク様の出されるお考えに()うよう、これから計らって行くつもりだよ。シグリッド…お前には、また無理を()いる事があるやもしれん…その時は、どうか力を貸して欲しい」

そう言って頭を下げたペレスに、シグリッドは困ったように(まゆ)を下げた。

「頭を上げて下さい、ペレス団長!俺は、騎士団を去る時に言った(はず)です。救えなかった命への(つぐな)いと、アルト王への恩返しの為、俺に、騎士団再生への手伝いをさせて欲しいと」
「シグリッド…」
「勿論《もちろん》、妻の(そば)にいる事を前提としてですが…出来る限りの協力はさせて頂きます」
「ああ、重々承知の上だ」

そう答えたペレスが握手を求めて手を差し出すと、その手を取って握り返したシグリッドは、次いで、布に(くる)んだ魔槍(まそう)を差し出した。

「これは、お返しします。今の俺には不要なものですから」

しかし、それを一瞥(いちべつ)したペレスは首を左右に振り、受け取ろうとはしなかった。

「不要なものかはさておき、それは、お前が持っておくべきだ」
「え…?」
「これまで、我が第二槍騎士団で保管し、お前の言い残した通り、別の者に受け継ごうと試みたが、誰一人としてそれを扱えた者はいない」
「…」
「いざという時、お前が守りたい者の為に使うといい。今回のような事が、今後、無いとも限らんだろう」
「ペレス団長…ありがとうございます」

シグリッドは、そう言って微笑み、改めて魔槍を抱えると、ペレスに頭を下げて部屋を後にした。


―――――― そして、程なく。

妻のアイリスが待っている礼拝堂へ向かったシグリッドは、女神像の前で両膝(りょうひざ)を着き、祈りを(ささ)げていた妻の姿を見付けて、ゆっくりと(そば)に歩み寄った。

「待たせたな、アイリス」

ふっと柔らかな笑みを浮かべたシグリッドが声をかけると、夫に気が付いたアイリスは顔を上げて微笑んだ。立ち上がろうとする妻に手を差し伸べたシグリッドは、(つか)まれた手を引いて己の胸に彼女を抱き寄せる。

「ペレス団長様とのお話はもう良いの?」
「ああ、終わったよ」
「そう…。あら?この槍は、お返ししたんじゃ…」

夫の胸に(ほお)を寄せたアイリスは、返すと言っていた(はず)の魔槍が彼の手にあるのを見て目を(またた)かせた。
シグリッドは布越しに握った魔槍に(わず)か力を込めると、妻に経緯を話して聞かせた。

「そう思ってたんだが、ペレス団長が持って行くようにと言ってくれたんだ。守りたい者の為に使えと…」

己には、この槍を払う腕も、愛する者を抱き締める腕もある。シグリッドは、それが叶わなくなってしまったナングレーの事を思い出せば、(うれ)いた表情を浮かべた。

そんな夫の心中を察したのか、アイリスは(まゆ)を下げて彼を見詰める。

「シグ…」

妻に気遣(きづか)わせていると気付いたシグリッドは、困ったような笑みを浮かべて頭を()いた。

「あー、いや、何でもない。それより、お前は女神様に何を祈ってたんだ?」

問われたアイリスは少し体を離すと、シグリッドの握る魔槍に指先で触れながら答えた。

「それは、勿論、あなたが無事であった事への感謝と…そして、これからも、シグリッドが無事でありますようにって…」

ホープタワーから帰路(きろ)辿(たど)る間に、アイリスは、フォラスによって腕を奪われた青年について話を聞いていた。これが、もしシグリッドだったなら、己は()えられた自信はない。フィアンセである女性の気持ちを考えれば、アイリスは胸が裂かれる思いだった。
妻も同じように悲劇を(うれ)いているのだと察したシグリッドは、今一度、妻の背に腕を回して引き寄せた。

「戦士として、男として、守りたいものを守る(はず)の腕が奪われたのは辛い事だ。きっと計り知れない絶望(ぜつぼう)を感じているだろう…」

シグリッドの思いも理解できる、しかしアイリスは、彼とは違う思いを抱いていた。

絶望(ぜつぼう)なんて、しなくていいわ…」
「え?」
「武器が振るえなくたって、戦えなくたって、命がそこにあるんだもの」

アイリスは夫の胸に頬を寄せて目を閉じると、その思いの丈を告げた。

「大好きな人が、生きて(そば)にいてくれるだけで…ただそれだけで、守られていると、そう思うの」
「アイリス…」
「シグリッド、傍にいさせて。離れて行っちゃ、嫌よ…」

どこか不安げな顔で妻が見上げると、シグリッドは妻の頬にそっと手を添えた。
己が騎士団に戻りたいと言い出すとでも思ったのだろうか。そんな妻を安心させるように、シグリッドは低く優しい声音で告げる。

「どこにも行かないよ。お前の傍にいると、何度だって約束して来ただろう?」

その言葉を聞いて安堵(あんど)したのか、アイリスが小さく(うなず)いて微笑むと、シグリッドは身を(かが)めて妻と(くちびる)を重ねた。

夕陽に照らされたステンドグラスから漏れる光りは、女神像と、その(かたわ)らにいる夫婦の重なる影を優しく映した。
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