ミレイと不思議な鏡の国
 湊は海鈴の隣に立ち、腕を組んだ。キャンバスの中の男性は、湊によく似ていた。憂い気な表情で横を向いている。背景は桃色で、白いレースのようなものがなびいている不思議な空間だった。

「なんでか分からないけど、すごく恥ずかしいです。この絵を見てると……」

 キャンバスの中の湊は横を見ているのに、なぜかじっと見つめられているような。
「恥ずかしい? そうか……それはきっと、炙り出されてるからかな」

 見上げると、湊は穏やかな横顔で絵を見つめていた。

「炙り出されてる……?」
 湊は意味深な笑みを海鈴に向けた。

「それね、『仮面』っていうタイトルなんだ。三年前、美大の入試で描いた作品でね」
「絵を描くのが入試なんですか?」
「そうだよ。美大は実技試験があるんだ」

 つまりこの人は海鈴と同じ歳のときに、この作品を描いたということか。プロのようなタッチに、海鈴は呆然とした。

「自分を描くのって、結構恥ずかしいよね。でも、自分を知るきっかけにもなるんだよ。あ、俺ってこんなところにホクロがあったんだ、とかね」
「……鏡みたいにそっくりです。でも……なんか、なにか違う気がする……」

 時が経っているのだから当たり前かもしれない。でも、目の前の湊とはなにかが違うと海鈴は思った。作品のテーマである『仮面』というワードが、わけもなく海鈴の心に引っかかった。

「なんか違うかぁ。でも、それは今の俺には褒め言葉だな」
「……なんだかこの絵、自分を見てるみたいです」
 海鈴の呟きに、湊はわずかに目を瞠った。
 
 しばらくして美術部員らしき同級生たちが数人やってきた。ほとんど挨拶もしたことない人たちだ。海鈴は教室の隅で小さく息を潜めた。
 参加者は、海鈴を含めて七人ほどだった。

「集まりましたね。それでは改めて自己紹介から始めます。僕は天城湊といいます。東京の芸術大学の三年生です。僕も三年前まで、皆さんと同じこの学校の学生でした。今回、美術部顧問である三条さとみ先生の頼みで、今年の夏休みの期間中、毎週月曜日のこの時間に、全六回の絵画教室を開くことになりました。どうぞよろしくお願いします」

 どうやらこの絵画教室は、他でもない三条女史の一声で決まったイベントだったらしい。しかし、なぜその主催者がいないのか。

「あ、ちなみに三条先生は今有給使ってフランスに行っているそうです」

 海鈴の疑問を察したかのような絶妙なタイミングで、湊が言った。
 こちとら進路に悩んでいるというのに、なんて呑気な担任教師だろうか。そもそもこの絵画教室に海鈴が参加する意味が分からない。

「湊先生、かっこいいね」

 一部の女子が小さく黄色い声を上げている。海鈴はちらりと湊を見た。

 柔らかな暗めの茶髪。鷹色の瞳は優しげに細められ、形のいい唇はほんのわずかに上がっている。
 湊はイケメンだった。

 絵を描く人間なんて、鬱々とした変わり者ばかりだと思っていたけれど、湊は海鈴のイメージの真逆の人間だった。
 モデルをやっていると言われれば、あっさりと納得するだろう。おまけに人当たりもいいし、落ち着いた好青年。

「今回、美術部顧問の三条先生からは、美術部員じゃない生徒も参加するという話を受けました。そのため、今回はグループを大きく二つに分けたいと思います。まず美大志望の美術部員の六人はこちらへ。君たちには受験用の課題を出します。飛鳥さんはこちらへ。飛鳥さんは美大志望じゃないと聞いてるので、今回はまず絵に興味を持ち、描くことの楽しさを知ってもらうところから始めていきましょうか」

 そう言って、湊は海鈴にスケッチブックを差し出した。美術室の中で、六対一に分かれる。

「では、それぞれに別のテーマを出していきたいと思います。美術部員の皆さんのテーマは『ひと』。独創性と自分の中のイメージを大切にして、今出せる実力を絵に落とし込んでください。提出は最終日です。それじゃ、始めてください」

 美術部員たちはさすがに慣れているらしく、すぐにスケッチブックに向き合い、黙考し出した。

 湊が海鈴の元にやってくる。そして、海鈴と向かい合うように椅子に腰を下ろすと、にこっと笑った。

「君のテーマは『なし』」
「えっ……なしって、梨?」
「ははっ、違うよ。なしは、なしだ」
 海鈴は困惑する。

「君は、自由にこの白い世界に色を落としてください。鉛筆でも、絵の具でも、文字でも絵でもなんでもいい。君たちは他にやることもあるだろうし、この時間だけ使って描いてくれればいいよ」

 お前は、好きにお絵描きでもしてろということか。ますます分からない。一体、三条女史は海鈴になにをさせたいのだろう。
 パッと美術部員を見ると、何人かは既に鉛筆でなにやら描き始めている。

 海鈴は、まっさらなスケッチブックを前に途方に暮れた。絵心なんてないし、想像力だってない。描きたいものも分からなければ、技術も持ち合わせていない。
「飛鳥さん。難しく考えなくていいんだよ。好きに描いていいんだ。俺は先生じゃないし、気負わないで」

 悩んでいると、湊が海鈴の肩に手を置いた。
「好きに……って言われても」

 湊の鷹色の瞳から、真っ白なスケッチブックに視線を戻す。結局なにも描けないまま、一回目の絵画教室は終わりを迎えた。
「来週も待ってるね」
 帰り際の湊の言葉は、海鈴の耳の中でいつまでも木霊していた。
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