ミレイと不思議な鏡の国

もうひとりの自分と、不思議な鏡の国


 翌朝目が覚めた海鈴は、いつものように洗面台に立った。何気なく鏡に映った自分を見つめた。

「あれ……昨日眠れなかった割には」
 まともな顔をしている。いつもなら、たった数時間夜更かししただけでできる目元のくまもなく、ニキビもできていない。ツルッとした肌。
 ぱっちりと開いた瞳の中には、キラリと星の欠片が煌めいていた。長い睫毛が小さく震え、ぱちりと瞬く。

 鏡の中の自分が、瞬きをした。いや、そんなはずはない。自分が瞬きをしたら、その瞬間の自分の顔は見えないはずだ。だって、瞼の裏には暗闇が映るはずなのだから。

 気のせいだ。そう思いながら、もう一度自分を見る。すると、今度は口角がゆるりと上がり、鏡の中の自分がにこりと笑った。

「え!?」
 思わず声を出して驚くが、やはり鏡の中の自分はにこやかに微笑んだままで。

「ど、どうなってるの……?」

 海鈴はおそるおそる鏡に右手を伸ばす。鏡の中の自分もそっと右手を出してきた。そして、見慣れた唇が、聞き慣れた声を発した。

『はじめまして、私』

 自分の声は聞き慣れているはずなのに、その声はどうしてか新鮮に聞こえた。ガラスの中の自分が小さな笑い声を上げる。
「……しゃ、しゃべった……!?」

 状況を理解した瞬間、全身から汗が吹き出した。しかし、鏡の中の自分はいたって涼しい顔のままだ。
「おっ……」

 鏡の自分が大きな瞳を瞬かせながら首を傾げる。海鈴は、自分自身と目を合わせながら叫んだ。
「お母さーんっ!!」

 一層うるさい足音を立てながら、海鈴は母のいるリビングに駆け込んだ。
「なぁに、朝から」

 母がフライパンを持ちながらくるりと振り返る。
「いっ……いい今、今……っ!」

 海鈴は声にならない声を漏らしながら、身振り手振りで必死に訴える。
「かっ……かかか鏡がっ!」
「鏡?」

 母が眉を寄せる。

「鏡がしゃべった!!」
「はぁ? あんた、寝惚けてんの? まったく勉強もしないで……。本の読み過ぎじゃないの」

 寝惚けているのだろうか。たしかに、これはひどくおかしい。まったくもって現実的でないし、かといって夢かと言うほど大きな異常でもない。中途半端な不思議で、夢か幻か微妙なところだ。

『はじめまして、私』

 海鈴の耳の奥で、自分の声が木霊する。いや、やはりおかしいだろう。いくら寝惚けていたって、鏡の中の自分に向かって『はじめまして、私』なんて言わない。

「いや、でも……」

 海鈴は唇をきゅっと結び、ぱちぱちと瞬きをする。

「いいから、早く顔洗ってきなさい」
 有無を言わせぬ口調の母に、それ以上なにも言えなくなる。
「……そ、そうだね」

 冷静な母の様子に海鈴も平静を取り戻す。よくよく考えれば母の言う通り、鏡の中の自分が喋るなんて有り得ないことだ。もう一度洗面台に立ち、びくびくしながら鏡を見るが、特におかしな様子はない。やはり寝惚けていたのだろう。

 顔を洗い何度か瞬きをすると、ようやく頭がはっきりしてきた。海鈴は最後にもう一度鏡を見て瞬きをすると、朝食の香りが漂うリビングへ向かった。

「――二人とも、元気?」

 母が言っているのは、ゆっこと翠のことだ。
「うん。ゆっこは東京の大学が決まったから、卒業したらあっちで一人暮らし始めるんだって。夏休みはバイト三昧だって言ってたよ」
「あら、そう」

 母は白米を口の中に放り込みながら、あっさりとした相槌を打つ。
「翠くんは?」
「翠も大学。教師になりたいんだってさ」
「へぇー。あの翠くんが教師かー。みんなもう、すっかり大人になったのねぇ」
 なんて、母はしみじみとした様子できゅうりの漬物を咀嚼している。
「そうだね」
 白米を噛み潰しながら、ぼんやりとした返事を返す。
「海鈴は?」とは聞かれなかった。
 なんとなく気まずさを感じる。
「翠も夏期講習とか受験勉強で忙しいみたいだよ」
「そうよね、大学入試だものねぇ」
 やはり、海鈴についてはなにも言わない。
「……私は行かなくていいの?」
 箸を置き、思い切って訊ねてみると、母はキョトンとした顔をした。

「行きたいなら行ったら?」

 想像以上に軽い返答に、海鈴は面食らう。

「え、いや、行きたいならって……」

 そんなことを言われても、金を出すのは親だ。進路も決まっておらず、やりたいことすら分からない今の海鈴に、そんなわがままは言えない。

「行けって言われれば、行くんだけど……」
「人に言われてやることに意味はないでしょ」
 母はさらりと言った。あまりにも当然の答えに、海鈴はなにも言葉を返せなかった。

 昨日の重苦しい空気の面談室を思い出す。住み慣れた自分の家なのに、十年以上も過ごしてきたリビングなのに、あのときと同じ重い空気に海鈴はため息を漏らした。

「……昨日ね、先生に怒られたんだ」
 今度は母が箸を置いた。
「進路が決まってないの、私だけなんだって」
「まぁ、この時期だしね。先生も焦ってるのよ」
 母はそうひとことだけ呟く。
「……それだけ?」
「なにが?」

 やはり、ちょっと他人事過ぎやしないだろうか。自分で言うのもなんだが、海鈴は一応母にとっては愛娘のはずなのだが。

「とにかく、夏期講習でも大学でも就職でも、あなたの好きにしなさいな」

 こんなにあっさり話を切り上げられるとは。急に食欲がなくなってしまった。母はお椀の中の味噌汁を啜っている。海鈴の味噌汁はといえば、既に冷めて具は底に沈殿していた。

「あ、そういえば」と、母はぼんやりしている海鈴に言った。
「夏バテには、牛乳がいいそうよ」

 常々、母はこういうところがある。くだらない。海鈴は牛乳が大嫌いだ。

「夏バテじゃないよ」

 たしかに鏡の中の自分が喋り出したなんて、不思議な目眩はしたけれど。
「そう? でも牛乳は飲んだ方がいいわ。あ、そうそう。あとマヨネーズもついでにお願い。切らしちゃったのよ。どうせ図書館行くんだからついででしょ。マヨネーズがなかったら、明日目玉焼きできないわよ? いいの?」
「む……それは困る」

 飛鳥家の目玉焼きには代々、マヨネーズと黒胡椒、そしてわさびをつけると決まっている。
 ソース派醤油派、よく論争になる話題だが、飛鳥家ではそのどちらでもなくマヨネーズなのだ。
 これはなにがあっても絶対に譲れない。つまり、マヨネーズが冷蔵庫にないとなると、朝食のおかずが一品なくなってしまうということになる。それは危機だ。大問題だ。
 その事態が本意ではない海鈴は、ふん、と鼻から息を吐き、静かに不満を訴えながらも買い物へ行く支度をした。
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