一夜の甘い夢のはず
 彼と至近距離になって、初めて彼が香水をつけていることに気がついた。ひんやりとした清涼感のある、一輪のバラが咲いた森のような香り。この距離でしか気づかない香りに、彼がいったい誰のためにこの香水をつけているのかと思うと、胸の奥が切なくなる。

「次の駅で、私は降りたら良いのですね」

「はい……ホームに降りたら、階段を昇って一旦改札を出てください。改札で切符を取るのを忘れないでくださいね。改札を出たら左に曲がって通路をずっと行くとまた改札があるので、切符をまた入れてください。次の電車は改札を抜けて右の階段を下りたところに来ます。降りる駅がそのまま行先表示になっているので、わかりやすいと思いますが……道順とかややこしいので、わからなかったら駅員さんに聞いてくださいね」

 長ったらしい案内に、最終兵器も案内する。

「お疲れのところ、なにからなにまでありがとうございました」

「いえ、お役に立てたのならなによりです」

 もうあと一駅で彼と一緒にいられる時間が終わってしまうと思うと悲しい気持ちになってしまうけど、連絡先を聞くような勇気が私にあるわけなかった。

「ところで――今度の土日は、お休みですか?」

「え? あ、はい。そうです」

 しょんぼり俯いているところに話しかけられて、慌てて顔を上げる。
 背が高いから、ちゃんと目を合わせようとするとちょっと首が痛くなりそう。でも、じっと見上げても車内の明かりが逆光になって彼の表情がよくわからない。

「お休みの日はなにを?」

「えっと……自宅でのんびりしていることが多いです」

 おしゃれにカフェ巡りとか、自己研鑽のために勉強してるとか、ジムで体を鍛えてるとか答えられたら素敵だったんだろうけど、馬鹿正直に話してしまう。
 溜まった家事と持ち帰った仕事と、あとはひたすらダラダラのんびり配信期間が終わる前に今週のドラマを見て休日は終わってしまう。

「今週末も、そのご予定で?」

「恥ずかしながら……」

 本当に、恥ずかしい。今からまだ仕事があるっていうし、きっと彼は休日も忙しいんだろうな。それこそ自己研鑽とか、ジムとか通っていそう。趣味がカフェでの甘い物巡りとかでも、ギャップが可愛くて素敵だけど。

「では、お礼をさせてくれませんか? 今度の土曜日の十五時、さっきの駅でお待ちしてます」

「ほへっ?」

 彼の口から飛び出した予想外の言葉に、間抜けな声が自分の口から飛び出した。

「ご都合が悪くなるようでしたら、そのまますっぽかしていただいて構いませんから」

 何を言われているのか、脳内の処理が追い付かない。頭の中で輪っかがくるくる回るイメージだけが浮かぶ。
 私がぼんやりしている間も電車は進み、彼が降りる駅に到着した。
< 6 / 27 >

この作品をシェア

pagetop