運命

1

 こんなはずじゃなかった。

 なぜなの? ただありふれた幸せを願うのは罪なの?


 生暖かい液体が私の指から手の甲に、そして手首に伝っていく。むせるような鉄に似た生臭い臭い。視界に入るのは鮮やかすぎる紅。


「あああああ」


 私は血に濡れた包丁を手から離そうとするけれど、指が強張ってなかなか離れない。
 膝が笑う。包丁を持ったままその場にへたり込んだ。


 私の前には大きな血だまり。その中央に私の最も愛した人が倒れていた。
 信じられないというように開かれたままの彼の瞳から私は目を逸らした。


 大丈夫。大丈夫よ。もう一度、もう一度あの石に願えばいいんだわ。

 そう。どういう仕組みか分からないけど、前回もそれでやり直せた。結局こんな結末になってしまったけれど。

 とにかくこの包丁を手放して。
 固く握られた指を一本一本包丁の柄から外して、エプロンで手についた血を拭いた。
 寝室へと這うようにして行く。こんなに廊下は長かっただろうか。もどかしい。涙で視界も悪い中、嗚咽を漏らしながら手足を前に出す。
 あの石はドレッサーの一番上の引き出しに大事にしまってある。
 震えの止まらない手でなんとか引き出しを開けると、薄紫色の玉がそこにはあった。

 私はその玉を恐る恐る両手に乗せた。ほのかに光を灯したその玉を見つめて私は叫んだ。


「お願い! お願いよ! もう一度、もう一度願いを聞いて! この人に会う前に時間を戻して!!」


 私の想いに応えるようにその玉は輝きを増し、あたり一面が光の洪水に飲まれた。
 私の記憶はそこで途切れた。
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