バー・アンバー 第一巻

現れた駅

「わ、わたし、わたし…駅を知りたいだけです。あの…こんな汚い格好してるけど…どうか教えてください。この通り、で、電車賃だって持ってます。わたしは…家に帰りたいんです」再度小銭を俺に示しながらそう訴えかける目は涙ぐんでさえいる。それを聞きながらしかし俺にはこのオブラートに包まれたようないまの自分の姿を彼女が自覚しているのかどうか、まずそれが疑われた。と云うのも(いま居るこの夢世界?or異世界?ゆえに)彼女から直接的に伝わり来る思念が容易に理解されたからだ。それはあのとき魔王に絡め取られたイブが最後に送ってよこした念を俺が理解できたのとまったく同じ理屈である。それに寄ればだが、この眼前のホームレス然とした女性の心中では〝わたしがこんな乞食のような格好をしているから人々から冷たくされる、嫌われてしまう。お金をたかられると勘違いされているのだ〟という思いが渦巻いているのだった。あきらかに自身のオブラート姿など自覚していない。これはあとから気づいたことだが実はこのオブラート姿こそが、この〝悪霊世界、悪霊の街〟の住人たちの目に写る姿となるのだろう。すなわち彼らにとって理解不能、悪意や欺瞞に充ちた自分たちの類ではないがゆえにそう写るのだ。魔王の仕儀とは云えこの世界に落とされた俺にあっても同様だったが、しかしオブラートの中から伝わり来る必死さと、何某か純粋なものは感得し得たのだし、何よりそれを破いて見せ得たのである。おそらく、この老女の云う「家」とは現実のそれではないだろう(なぜならホームレスだから)。それはたぶんホーム、心の故郷のことなのに違いない。
 以上を見取った俺はまわりの嘲笑など歯牙にもかけず彼女をやさしく立ち上がらせると「はい、わかりました。では僕がご案内します。さあ、行きましょう、駅に」と云って老女と連れ立って歩き始めた。俺に襲いかかっていた連中がなぜか退いて道を開ける。だが幾許もなく俺自身がその駅を最前より見出せなかったことを思い出した。しまったと思ったがしかしこの瞬間なにか暖かいものが2人に降りて来たように感ぜられ、なんと、いきなり目の前に鶴見駅が現出したのだった。安堵した俺は「ほらここですよ。よかったですねえ」と老女に語りかけた。
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