大魔導士は果てのない愛を金の環にこめて

憂い

 真夜中のリンドハーゲン男爵邸の一室で、一人の男が溜息をつく。
 この家の主――エドヴァルド・リンドハーゲンは読んでいた書物から顔を上げて窓の外を見つめる。

 闇に濡れた窓は外を映さず、この国の大魔導士の顔を映すだけ。それもまた、彼を憂鬱にさせた。
 彼が気にかけている少女が起きているのなら、彼女の部屋の明かりがここから見えるはずなのだ。

「……もう、寝たのだろうか?」

 彼は手に持っていた本を机の上に置き、ドリスから返却された上着を羽織ると、部屋の外に出た。

「あらま、いかがなさったのですか?」

 食堂に辿り着けば、日誌をつけながら白湯を飲んでいるドリスの姿があった。予想外の人物に見つかってしまい、エドヴァルドは視線を彷徨わせる。

「眠れないから果実酒を飲みに来ました」
「旦那様が自ら来なくても、ベルを鳴らしたら運びましたのに」
「そうですね。しかし……」

 食堂の女将よろしくなお節介気質のあるメイド長は、不器用な主の気持ちを察して和やかに微笑む。
 密かに母親役を買って出ているこのメイド長は、いつになく落ち着かない様子の主が可愛らしく見えてしまうのだ。

 何を思ったのか、彼女は主がご所望する酒には目もくれず、ミルクを鍋に入れると魔法で火をおこし、温め始めた。

「旦那様、悩んでいる時は酒の力を借りてはなりませんよ。悩んでいる時こそ体にいいものを飲むのです」

 ミルクの水面に膜ができれば匙で取り除き、温まったころ合いで食器棚からカップを取り出して蜂蜜を垂らす。
 蜂蜜の甘い香りが湯気とともに立ち上るのを、エドヴァルドはぼんやりとした顔つきで見ていた。

「フィーのことが気になるのでしょう? 今日の旦那様はずっとあの子を目で追っていましたわね」

 エドヴァルドは目の前に置かれたカップを両手に包む。記憶の底にある香りに似ている、優しくて心が落ち着く香り。

「ああ、ようやく自分の目の届くところで見守られるようになりましたからね」
「幼い頃からずっと慕っている方だと仰っていましたものね。ああ、まるで恋愛物語を読んでいるようですわ」

 うっとりとため息を零すドリスとは正反対に、エドヴァルドは寂しげに微笑んだ。

「しかし結果として私は――あのお方を自分の侍従にする事しかできませんでした。そうすることでしかあのお方を自分の側に置けないのが情けない……」

 普段は感情を出さない主の切な気な表情は、大変同情心をくすぐる。
 ドリスは目にうっすらと涙を浮かべて首を横に振った。

「旦那様……、それでもフィーはあなたに感謝して慕っておりますよ。だから身分差を気にして躊躇わず、旦那様の率直なお気持ちをフィーに聞かせてあげてください」
「そうですね……励ましてくれてありがとうございます」

 すっかり弱りきっている主のために言葉の限りを尽くして励ましていたドリスは、主の瞳に爛々と輝く不穏な光に気付かなかった。

 小さな夜の宴を終えたエドヴァルドはドリスに挨拶をして部屋に戻る。

「――ドリス、君は勘が鋭いが一点見落としていることがありますよ」

 エドヴァルドは窓の外を見遣る。夜風に吹かれ揺れているのは、銀色の糸でできた蜘蛛の巣。その先にあるセラフィーナの部屋を見て、不敵な笑みを浮かべた。

「私はあのお方を手に入れるのを躊躇っているのではありません。その時が来るのを待っているだけなのです」
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