恋愛期限
これは何かの間違いです。
加奈(かな)ちゃん、僕の事忘れないでね。大きくなったら絶対、絶対に迎えに行くから。迎えに行って、僕が加奈ちゃんをお嫁さんにするから。だから絶対、忘れないでね』
 そう言って、健斗(けんと)君は、ぼろぼろにすり切れた服の袖で必死に溢れてくる涙を拭っていた。
『うん。待ってる。私、健斗君のこと絶対忘れないで待ってるからね』
 ――それは、遥か遠い昔の、約束。
 今から十三年前の春の日の小さな、でも確かな、約束。



 ――そして、十三年後。現在。
「――嘘」
 約束も予告も前触れすらも無しに直面している事態に、私はぱちぱちと目をしばたたかせていた。
 時刻は午後一時五十分。
 ちょうどお昼時で押し寄せてくるお客さんをさばき切って、店内が落ち着き始めた頃だった。
 ちらほらまだお客さんはいるけど、片手の指で数え足りる位にはなっていて。
 彼もその中の一人だった。
 いや、その一人のはずだったのに。
 何とその彼は、にわかには信じがたい発言を私にして来ていた。
「迎えに来た」
 ――と。
 カウンター越しに向き合って、彼は私に対して再度、そう告げて来た。
 ツーブロックショートの髪に、大きめの吊り上がった瞳。通った鼻筋、きゅっと引き結ばれた唇。
 きっちりとした見るからに上質のスーツを着こなした彼の姿は、どうしても思い出の彼の姿とは一致しない。
 完璧すぎる。鮮やかすぎる。
 対して私はここで働き始めた時に配給された茶色の業務用の制服という姿で、おまけに作業効率を重視して今は黒縁の眼鏡まで掛けていて、髪も気の利いたセットもしてないただのショートヘアー。
 つまりお世辞にもファッショナブルとは言えないスタイル。
 何なんだろう、このミスマッチは。
 え?これ本当にそういう感動的なシチュエーション? だとしたらもっとそれに相応しい恰好をさせて欲しかったんだけど。
「ったく、調べるのに半日もかけてんじゃねーよ。別に雲隠れしてたって訳でもねーんだろ」
 普通に普通の所で働いてたじゃねーかと、隣に一メートル位の距離を取って並んでいた相手に、彼は言い放った。
 並んでいた言うよりも控えてたと言った方が正しいかもしれない。
 同じ年頃の男性で、その人もきっちりとスーツを着ている。
「すみません。他の業務が少し立て込んでいたもので」 
 しっかりとした口調でその男性は彼――健斗君に向かって頭を一度下げた。
 そう。彼は自分を健斗君だと言った。たった今、そう私に名乗り出て来たのだ。 
「――嘘。嘘でしょ?」
 馬鹿みたいに同じことを口にするしか出来なくなっているけど、今告げられた事実は、それだけ私にとっては信じがたいもので。
 だって、目の前のこれ……もとい、この人が、健斗君なんて。
(ち、違う、絶対違う)
 そんなはずはない。
 だって、少なくとも私の記憶している健斗君は、こんな子じゃなかった。
 私の知ってる健斗君は、大人しくてとっても繊細で、すぐに泣いちゃうような子で。
 いつも一人で、部屋の隅っこで本を読んでて。
 そんな子だった、はず。
「何が嘘だってんだよ」
 面倒くさそうに自称健斗君は顔をしかめてきた。
(やっぱり、違うっ……!!)
 健斗君はこんな言葉使いするような子じゃないし、こんな人を睨んでくるような子じゃない。
 こんな偉そうな子じゃない。絶対そうじゃない。
「あ、あの、お客様、おそらく多分誰かとお間違いでは……?」
 きっと別人だ。この人は同姓同名の別人で、私の事もきっと同姓同名の別人だと勘違いしている。
 そう結論付けて、私は精一杯の営業スマイルでこの場を切り抜けようとしたけれど。
「間違ってねーよ!」
 私の発言が火に油だったのか、即座に相手からは、今日一番の大きい声が返されてきた。
 その迫力にびくりと肩を震わせた私を見て、流石に相手も言い過ぎたのを悟ったらしい。
 ふう、と一つ深い息をついた後の口調は、幾分か落ち着いたトーンではあった。
立塚(たてづか)養育院出身の坂上(さかがみ)加奈。だろ?」
 間違えるかよ、と語尾に付け足す。
「坂上加奈、現在二十二才、今年で二十三才。三歳の時両親を事故で亡くし以降立塚養育院で育つ。十七の頃からここのバイト始めて、そのままその流れで十八の高校卒業と同時に就職、独立で現在に至る――だったよな?」
 傍に控えていた男の人の方を見て確認する様に問いかけると、その人は無言でこくりと頷いた。
 つらつらとよどみなく彼の口から発される情報は、確かに私の経歴と見事に一致している。
「で、昔同じ養護施設にいた俺とは、十歳の時俺が水無川(みながわ)家に引き取られたのきっかけに別れて。――その時、俺と結婚の約束をした」 
 にっと唇の端を上げて自称健斗君は私に意地悪な笑みを浮かべた。
 うっ、と私は言葉に詰まる。
 確かに記憶は、ある。そういう約束をしたのは覚えてるけれど。
「したけど、違います。私が約束したのは健斗君で」
「――だから!本人(オレ)だっての!」
 またそこで自称健斗君の声が大きくなった。
「てな訳で。お前今日ここ何時まで?」 
 さっさと話を進めたいとばかりに自称健斗君が訊ねてくる。
「……四時まで、ですけれど」
 問われた質問にそう返すと、夕方だよな?と彼が再び問い返してくる。
 確かに二十四時間営業のコンビニ(ここ)では普通で当たり前の質問だった。
 だけどどこか抜け目がないな、という感じがして少しだけ怖かった。
「あと二時間か」
 腕時計を見てざっくりとそんな時間計算をしつつ、中途半端に時間あるなとごちて、チッと自称健斗君は舌打ちをする。
 いや、訂正。少し所か、とっっても怖いんですけど、この人。
「仕方ねえか。んじゃ、そん時位にまた迎えに来るわ」
 そんな私の気持ちを全く理解してないと見える自称健斗君は、決定事項として処理して一人で話を進めていく。
「これからの事色々決めなきゃいけない事あるから。とりあえずその時話しようぜ」
 え?迎えに来るって。その時って。
 これってもしかしなくても、いわゆる『待ち合わせ』という事?
 いや、ちょっと待って。勝手に話を進めないで。
(こっちの都合とかは!?)
 ただでさえ今頭の中が混乱してる状態でそんな急に決められても。
「ま、待って!」
 あまりの展開に付いていけずやっと絞り出せた声は思いのほか大きい声になってしまって、店内で商品を物色していたお客さんが何事?とちらちらとこちらに視線を向け始めた。
 カウンターで何やら揉め事が起こっていると認識され始めているらしい。
 いや、何事かと一番聞きたいのは私なんですけれどと叫んでやりたい気持ちを、私は何とか耐える。
(いけないいけない)
 今は仕事中。あくまでも私は店員としての顔を崩してはいけない。
 ここは冷静に。品位を保ち、かつ的確に、適切な対応を。
 言い聞かせながら、声のボリュームを下げて自称健斗君に話しかける。
「あ、あの」
「何」
 話を遮られて機嫌を損ねたらしい彼がじろり、と二つの目を吊り上げて話の先を促して来る。
 だから、怖い!!
 怖い、けど。
「困ります、急に」
 ここでこのまま引くわけにはいかない。
 ごく当たり前の主張を何とか喉の奥から絞り出すと、自称健斗君は少し目を丸めた。
「何か他に用あんの?だったらその後にするか」
 時間空くの何時?と違う方向に話が飛んでいっているのを制そうとして私は思わず、
「い、いや、そういう訳じゃ」
 なんて墓穴掘る一言を口走ってしまっていた。
 いやバカ。私の大バカ。何を言っているの。
「じゃあ何だよ」
 案の定の追及。
 それでも事態を回避すべく、私は思いつく限りの精一杯の敬語をフル活用してごにょごにょと自分の心情を述べていく。
「えっと、だから急にそんな事を言われても困りますというか、わたくし失礼ながらあなたの事をよく存じませんので、その見知らぬお方と急な約束は抵抗がありますというか、そもそも仰っている内容が理解出来かねますというか……」
 まとまりのない発言だと自分でも自覚はあったけれど、ここは伝わる事を願うしかない。
 この日本には一を聞いて十を知るという言葉もある位だし、空気を読んで協調を図るっていうそれはそれは素晴らしい文化もある。
 そう一縷の望みをかけてみたけど、どうやら目の前の人物には通用しなかったようだ。
「だから見知らぬお方じゃねーってさっきから言ってるだろ」
 自称健斗君から返って来たのは心底うんざりした表情だった。
 何遍も言わせるな、と思いっきり顔に書いてある。
「俺は健斗君。お前と昔結婚の約束をした水無川健斗」
 今度はゆっくりした口調で、でもやっぱり自称健斗君は同じ主張を繰り返した。
 怒鳴られたり睨まれたりしなかった分だけ心臓は無駄に跳ね上がらずに済んだけれど。
 だけど、次の瞬間。
「な?――加奈ちゃん?」
 不意打ちに、自称健斗君は私の名前を呼ぶと、ぐいっと身を乗り出してきて私に接近してきた。
 カウンター越し、目一杯に。
(え、ええええええっっっ!?)
 急に縮まった距離に、反射的に一歩後ろに下がった私に向かって、更に彼の右腕が伸びてくる。
(何、ナニ、なに!?私何されちゃうの!?)
 せっかく落ち着いていた心臓がまたばくばくと鼓動を立て始めた。
 今日一番、前よりも速いスピードで。
 固まったまま動けない私に構わず、彼はそのまま顔の真横まで右手を伸ばしてきて、指先で器用に私が掛けていた眼鏡をすくい上げる。
 そして流れるような一連のモーションで、それを私の顔から抜き取った。
 視界が少しぼやけた世界に変わる。
「ち、ちょっと!」
 要するに奪われたのだと気付いた時には、眼鏡はもう彼の右手の中に完全に納まってしまっていた。
 取り返そうと慌てて声をかけたけどもう時すでに遅しで、自称健斗君はそれを私の目の前に突き付けた。
「貰っとく。返して欲しかったら――逃げるなよ」
 更に駄目押しみたいにそう告げてくる。
 え、これって一体何の脅迫?
 お巡りさんこっちです、ここに人の物を盗る悪い人がいます人を脅す悪い人がいます少しセクハラもしてました、助けて下さい!!――と、心の中で叫びつつも実際には声に出せないのが悲しい。
「じゃ、二時間後な」
 短く言い残して自称健斗君はひらひらと手を振って、背中を向けて入口の方へ向かっていく。
 だから勝手に決めないでお願いこっちの話を聞いて。  
 あとせっかく来てくださったのなら何か一つでも商品買って売り上げ貢献してくださると、こちらとしては大変嬉しいのですけれども。
 ――心の中で念じただけのそんな願いが聞き届けられるはずもなく(いや多分言葉に出して伝えていてももう結果は同じになってた気もするけど)、私は茫然とその後姿を見送るしか出来なかった。
 一緒に来ていた青年が、丁寧に私に一つ頭を下げてその後を追っていく。
 ウィィィィン、と自動ドアが開いて、そのまま二人は店外へと出て行った。
 店内からは出て行っても、駐車スペースに停めてあったネイビーの車に乗り込んでいるのが窓ガラス越しに見える。
(すごい、車)
 光沢、フォルム、醸し出す雰囲気。
 詳しくはないけど高そうだと何となく分かったその車は、無駄のない静かな動きで駐車場を離れ、やがてその姿を消す。
「――何かあった?」
 その様子をぼんやりと眺めていた私に声がかかって、振り返ってみるとバックルームで作業していた店長の岸田さんがいつの間にか戻って来ていて、私の隣に並んでいた。
 第一声でそんな事を言われるなんて、相当ひどい顔をしていたのか。
「すみません、ち、ちょっと……」
 自分でも未だに消化不良のビックリする事が起こって、と説明する気力……というか余裕もなく、私はそう濁すだけになってしまう。
 時間にしたらほんの二~三分の出来事だった。だけどいかんせんインパクトが大きすぎて。
 落ち着こう、うん、まず状況の整理だと自分に言い聞かせつつ、今起こった事を思い返す。
 突然現れた、ただの普通のお客さんだと思ってた人が店に入ってくるなり自分が健斗君だと主張して、『迎えに来た』って言って、でもその人は健斗君とは似ても似つかない人で、そんでもって眼鏡盗られて、また二時間後に来ると言って、そして勝手に去って行った。
 処理しようと思ってもできない情報が、ぐるぐると頭の中を回る。
 がたり、と音がたった。
「お願いします」
 はっと顔を上げると、レジの横には買い物カゴが置かれていて、若い男性がカウンターの前に立っていた。 
「あ、ありがとうごさいます」
 そうマニュアル通りの言葉を口に出して、未だパニック状態のまま、私はまたカゴの中の商品を手に取って、一つづつバーコードのスキャンを始めていく。
 間違わないように。ミスしないように。
 心の中で意識して唱えるも、頭にこびりついて離れない現実。
(――今のが健斗君?――今からまた会う?)
 私の気持ちとは裏腹に、店内には軽快な有線のミュージックが流れ続けていた。
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