振り返って、接吻


「ごめん、そろそろ俺は帰るよ」


いつも通りを装えば、期待以上にいつもと変わらない抑揚のない声色が空気を震わせた。自分の感情表現の下手さに嘲笑がこぼれる。



「由鶴が帰るなら、わたしたちも帰るよ」

「あ、俺は片付けしておくので先におふたり帰られて結構ですよ」

「うーん、それは悪いから、じゃあわたしも片付け手伝ってから帰る」

「それじゃあ俺が社長を送り届けます、任せてください」

リズムよく交わされるふたりの会話には、俺の入る隙がない。「片付けありがとう、じゃあ、また」と言葉を吐いて、何か得体の知れないものを振りきるように、社長室から立ち去った。


社長室は、二人の部屋だ。俺はどうしても、余所者の気分。

3人というアンバランスな構図だけど、俺らは絶妙な距離感と絶対的な信頼関係によって仕事上かなりうまくやってきた。そこにプライベートな感情を持ち込むのなら、俺が悪い。


今夜も茅根は、宇田の部屋に寄っていくのだろうか。ふたりで何をするのだろう、仕事の話か、仕事の話をしながら食事か。あるいはもっと、他のこと。



タイミング良く現れたエレベーターに乗り込めば、姿見の鏡に写る自分と目が合った。

整っていると褒められる容姿だが、人間味に欠けた、全体的に黒っぽい冷酷そうな男に見える。癖や味のない顔立ちだ。

宇田と出会わなかったら、俺は感情というものを知らずに生きてきたかもしれない。


それぐらいに、自分の軸にいてすべてを支配している。


俺は、宇田のためならなんだってするし、彼女がすることには何にも反対したくないし、ほんとうはどろどろに甘やかして、くだらない我儘をきいてあげたい。そのせいで、俺がいないと何もできない女になってしまうというなら、それこそ本望だ。黙って、ずっと隣にいる。


そんな彼女が俺に与えた立ち位置は、恋人でもなく親友でもない、仕事のパートナーだった。だから俺は、宇田が望む副社長として、適切な対応をするしかない。


正直、宇田と最も親しい男であるのは自他共に認めていたし、いつか自然に結ばれるはずだと恥ずかしい程に楽観していた。宇田はそんなつもりさらさら無かったのに。


そんな仕事のパートナーをもうひとり、宇田自身が茅根に頼んだときの苦い味を俺は決して忘れないだろう。


控えめを装って社長の補佐に徹する茅根は、どう見たってそれが適任で、俺がやりたかったどろどろに甘やかしてあげることも、我儘をきいてあげることもしっかりできる。さらには俺よりずっと会話も上手くて、気配り上手だ。


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