別れの曲
 駅を降りてしばらく歩いて辿り着いたのは、全国的にも有名なリッチなホテルだった。
 本当に、こんなところであっているのだろうか。深呼吸をしても、何だか気分が落ち着かない。私には不相応な場所だ。
 名刺に書いてあるレストランは、ホテルの四階。アクセスと併せて軽く調べた情報によれば、ほぼワンフロア丸々、ただ一つそのレストランだけが運営しているらしい。
 なんと贅沢な空間の使い方だろうか。そんなところも、私の場違いさを際立たせる。
 辺りに目をやりながらゆっくり進んでいると、大人な雰囲気漂うエントランスで、ホテルマンに呼び止められてしまった。

 どうしたものかと固まる私だったけれど、私の手にしていたチケットを見るや、ディナービュッフェに参加ですか、と確認した後で、丁寧に四階への行き方まで教えてくれた。
 戸惑いながらも会釈をして、メインホールを抜けて角をまがったところに見えたエレベータへと小走りで乗り込む。
 四階のボタンを押して扉が閉まったところでようやく、私は止まっていた息を大きく吐いた。

(父親……お父、さん……)

 心の中で何度もその響きを反芻するけれど、どうにも実感が沸かない。
 家には、写真一つだってなかったから。
 誰とも知れない父親の顔を見た時、自分が一体どんな反応をするのか。どんな言葉を発して、どんな話しをして、どんな気持ちになるのか。
 そんなことを、つい考えてしまう。もうすぐ目の前だと言うのに。
 目的の四階に着いたことを報せる音が鳴った。はっと我に返って、私は慌てて外へと出る。

「うわぁ……」

 とても煌びやかな、ドラマやアニメに出て来そうな一流ホテルを予想していたけれど、いい意味で裏切られた。
 全体的に落ち着いた色調でありながら、その場に漂う空気は、上品と言う他ないものだ。既に何十、ともすれば百を超える程の客がいるにも関わらず、全く五月蠅くない。騒音と呼べるような音が、ほとんどないのだ。
 自分の暮らすこんなに身近な場所に、これほど現実離れした空間があるとは思わなかった。
 私は思わず立ち尽くしてしまう。場違いさが桁違いだ。

 そんな心地で、引き摺るように重い足を進めていると、ひとり、目を引かれる人がいた。

 窓際一番奥の席。上品な所作でワインをあおる、物静かな男性だった。
 パーマがかった少し長い髪に、綺麗に整えられた髭。銀縁の眼鏡を直す仕草も手伝って、上品というよりかは、他の人とは違ってダンディな風貌だ。
 まるで俳優のような佇まい。テレビで見かけてもおかしくないと思えるような、見た目と雰囲気だった。
 そんな男性が、私の目には、

(お父、さん……)

 理由も確証もないけれど、そう映っていた。
 ゆっくりと、けれども確かに、足は自然とそちらを目掛け進んでゆく。
 もしこれで、全く関係のない他人だったなら。目の前まで行って、話しかけて、怪しい者だと思われてしまったら。
 そんなことを思いながらも、私は、自身の内から溢れて来るものに抗えない。
 そこに辿り着くまでのたった数十秒が、何十分にも思える程だった。
 男性のすぐ近くまで歩くと、足を止めた。

「ん?」

 グラスに注がれていた視線が、こちらの方へと向けられる。
 私は何を思ったか、

「一仁三さん、ですよね」

 隠すこともせず、そんな聞き方をしてしまっていた。
 第一声は、こんなつもりじゃなかったのに。
 まずは普通に、当たり障りのない会話から始めようと思っていたのに。
 ただ――違う、誰だ、と突っぱねようとはしない様子から、答えを待つより早く、私は身体の力が抜けていった。

「おっと、大丈夫かい…⁉ それに、僕の名前を――君は一体?」

「だ、大丈夫です、すみません」

 支えようとしてくれたその手を断って、私は何とか立ち上がる。
 そうして視線が交錯した刹那。

「君……もしかして、陽和、なのか?」

 消え入りそうな声で、男性はそう尋ねて来た。
 私は言葉を失い、ただその瞳を見つめることしか出来なくなった。
 何も返さない私の様子から確信を得たのか、男性……一さんはそのまま、私を向かいの席へと座らせた。そうして店員を呼び止めると、オレンジジュースと何か適当なものを見繕ってきてくれとだけ頼んだ。

「驚いたが、君が来てしまったということは、あの手紙を読んだということだね?」

 一さんの問いかけに、私はただ無言で頷いた。

「そうか……すまない、さぞ驚かせてしまったことだろう」

 私は首を横に振った。
 そこで、先程の店員さんが、オレンジジュースと、鮮やかな彩りのサラダ、それから見るからに高級そうな小さなお肉の乗ったお皿を机上に並べた。
 一さんが短く礼を言うと、店員さんは綺麗なお辞儀を残してその場から離れる。
 ワインと同じグラスに入ったジュースを手に取る。話すにはまず、乾ききった喉を潤さないと。

「大きくなったね、陽和。と言っても、君は僕のことを知らないだろうけど」

 一さんはワインを小さくあおった。
 ふぅ、と息を吐いて、手元のグラスに視線を落とす。

「どんな話をすればいいものか――君は何か、僕に聞きたいことはあるかい?」

 私は無言で鞄を手に取った。その答えとして、中から取り出した件の物を机上へ置く。
 瞬間、一さんの目の色が変わった。

「これは……君が見つけたのかい? でも、一体どうして……?」

 一瞬、凄く驚いたような表情を浮かべながらも、一さんは努めて冷静に尋ねた。
 始めはただ頷くことしか出来ない私だったけれど、次第に頭も冷えて来ると、一言一言考えながら事の経緯を話し始めた。

「自宅の、ピアノの置いてある部屋で見つけました。一さんもご存知かと思います。赤子の私を、お母さ――母が抱いている写真の、その裏手にありました。戸棚の色と同化して、上手く隠れていたのかと。そうでなくとも、写真のフレームはガラス製品でしたから、私は触ることを極力避けていましたけれど」

「写真……あれか。あの裏に? ……そうか」

 一さんは何だか歯切れの悪い反応だけれど、私は構わず話を続ける。

「面倒なので詳細は省きますが、私はナルコレプシーという病気を患っています。ところ構わず、時間も問わず、急な眠気に襲われてしまうものです。その為、危なそうなものには極力近付かないようにしているんです。それが丁度、写真を眺めている時に発作を起こしてしまいまして」

 部分的に嘘ではあるけれど、信じてもらうには一番効果的なネタだ。

「それで、指を引っかけて、落としてしまって……割ってしまったそれを片付けようかと思っていた時に見つけました。偶然の出来事です」

「…………そうか」

 一さんは、バツが悪そうに眉根を下げた。そこでまた、ワインを小さくあおった。一呼吸置いて、私に向き直る。

「凡そ、聞きたいことは分かった。だからこそ、まずは改めて名乗らないといけないね」

 姿勢を正し、私の目を真っ直ぐに見つめて。

「僕は一仁三――君の母、美那子の、元夫だ。本当に大きくなったね、陽和」
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