別れの曲
 一さんが自宅にしているというマンションも、つい先刻までいたホテルのように立派だった。
 エントランスには水が流れ、照明も程よく抑えられている。随分と分厚い扉は、セキュリティもしっかりとしていそうだ。
 おかえりなさいませ、と出迎えるのは、警備員という風貌ではない。コンシェルジュ、なのかな。スーツにインカムを着けている姿は、さながらSPやボディガードのようである。
 エレベータを経て、最上階に辿り着いた。
 廊下は絨毯敷のようで、靴で歩いていることに気が引ける程の柔さだ。
 そのまま歩いて、一番奥の部屋へと通される。

「お、おじゃま、します……」

「好きに寛いで待っていてくれ。来客が来るのは初めてだけど、お茶くらいなら用意できるからね」

「は、はい…!」

 言われた通りに好き勝手しよう――という気にはなれないくらいに、そこは大人な空間だった。
 キッチン横の四角い机、そこに並べてある椅子へと腰を降ろした。 

「お待たせ。玄米茶しかなかったけど、飲める?」

 私は頷き、それを受け取った。程よく温かくて湯気も立っている。
 ほんのり漂うその香りは、私が一番好きなもの。

「さて、さっそく本題に入りたいところだけれど」

 向かいの席に腰かけ、真面目な表情で切り出す一さん。
 私の背筋も、自然と伸びてしまう。

「どう話したものだろうね。僕は言葉をオブラートに包むのが苦手な人間だから、きっと君に悪いイメージを持たることだろう」

「構いません。現実離れした経験なら、もういくらか体験していますから」

「そうかい? いや、うん、安心した。なら僕は、事実を事実のまま、君に伝えるとしよう。これは確認だけど、美那子からは、何も聞いていないんだったね?」

 私は小さく頷く。その反応を以って、一さんは一冊のアルバムを机上に置いた。
 訝し気にそれを眺める私に、一さんは中を確認するよう促す。私は言われた通りに表紙を捲った。

「これ……エコー写真、ですか?」

「ああ。白黒だけど、確かに君たち二人の影だ。八週間の頃だね。こっちが頭で、こっちが足元。まだ芋虫のようだ」

 扇状の写真の中に、確かに二つの影が見て取れる。
 一さんが比喩した通り芋虫のようにも見えるそれには、しかし確かに、どこか人のような形を思わせる部位が現れ始めている。

「この頃はまだ、どちらも元気なものだったが——陽和、そのまま捲り進めて、最後のページを見てくれ」

 一さんが、少し表情を曇らせながら言う。
 気にかかったけれど、私は言われたままページを捲った。

 一枚。
 二枚。

 進めていくにつれ募る違和感の正体は、最後のページで明らかになった。

「えっ、こ、これ……」

 言葉を失った。
 ただその一枚に釘付けになって、目が離せなくなった。
 姿形がより鮮明になった画像には、確かに二つの影が見て取れる。けれど、その大きさは大小異なる。

 少し小さい、大きいといった程度の話ではない。
 明らかに、片方は大きくなっていない――成長していないのだ。

 つい数秒前、八週間の頃だと紹介されて見た画像と、殆ど何も変わらない大きさなのである。

「こ、これって、つまり……」

「ああ。結論から言うと、その時既に『胎児死亡』だということが分かった。それが、陽向だ」

「胎児、死亡……」

「読んで字の如く。陽和は何となく分かっているみたいだけどね。母親の胎内で既に死亡が確認されている状態のことを言う。母体の病気や栄養不足など、理由は様々あるけどね。美那子の場合は、そうではなかったんだ」

「いや、でも、どうして分からなかったんですか……? 赤ちゃんなら、お腹を蹴ったり、動き回ったりして――」

 言いかけて、気が付いてしまった。
 私の存在だ。

「気が付いてしまった、かな。多分、君の想像通りだ」

 俯いていた顔を上げた視線の先では、一さんが小さく頷いていた。

「個人の妊娠なら、発見が難しいとされる胎児期であっても、兆候や異常は分かり易くあらわれたりするものだ。が、この場合は、二人いる内、君は元気に生きていた。双子というのは、例え二人同時にお腹を蹴ったって、母親にだってそれが二人分の動きなんだと完全に分かるものじゃない。反対に、身籠っているのが一人だけだったとしても、その子が激しく動き回るような子であれば、まるで何人もいるかのように思えることだってあると聞く。だから、気付けなかった。君が、特別元気だったのかな」

「そ、そんな…!」

 私は想像してしまった。
 自分という、今この場にいる存在それ自体が、彼の死に関わってしまっていたのか、と。

「この時すぐに緊急で分娩をして――陽和、君はいわゆる早産児というやつだったけど、随分と立派に大きく、そして魅力的な女の子に成長したね」

「わ、私のことはどうでもいいです…! それってやっぱり、陽向の死には、私が少なからず影響してるってことですよね…!」

「亡くなっていた。が、その時既に、随分と日数も経ってしまっていたらしい。もっとも、胎児期なんて自分の意思が介在しない世界だ。君のせいじゃない。よくあるとは言わないが、ない話ではないんだ。事実、分娩に携わってくれた先生からも、過去に何度か立ち会ったことがあるという辛い話だって聞いた」

 一さんは苦しそうに言った。
 私に本来いた筈の兄弟。
 どうしていなくなったのか、どうして隠して来たのか。
 本来聞かなくてもいいだろうと思っていた疑問が、強くなってきた。
 陽向くんの死――そんな決定的なことがあった筈なのに、それを一さんは知っているのに……。

「その事実を知っている筈のあなたは、どうして家を……母を置いて出ていってしまったんですか……?」

 事の顛末を知っていると言うのなら、少なくともその時までは一緒にいた筈だ。まだ、婚姻関係にあった筈なんだ。
 それだけ大変なことがあったのなら、傍にいて、母を、そして私を見守っていてくれている筈だ。

「そうだね。どう言おうかな。君の兄弟については、もう何を躊躇うことは何もないけれど……こうなった今、秘密にしておくのは難しい」

「どういうことですか? その言い方じゃあまるで――」

「躊躇う理由が陽向じゃない、って? ああ、その通りだ。そしてそれは、本来僕の口から話すことではなかった。いや、話さないようにと、僕らで話し合って決めたことだ。が、もう話さない訳にはいかないね。君ももう十分に立派な子、いや大人だ。とてもしっかりしている」

「な、何を言ってるんですか……? 陽向が直接の理由じゃないって言うなら……お母さんに何か隠してることがあるってことですよね…! お母さんに、一体何があるって言うんですか!」

 興奮する私を、一さんは冷静に抑える。
 鼻息荒くも黙ったところで、一さんは小さく口を開いた。

「陽和、君の母は……美那子はね――――」
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