別れの曲
第4楽章 『amoroso』

~1~

「――――はっ!」

 覚めたばかりの目で、私は慌てて周囲を見回した。
 すっかり見慣れた夢の世界。あの椅子の上で、私は目を覚ましていた。
 しばらく来られていなかったけれど、ようやく。
 身体を起こした時、ふと背後から、すっかり馴染みの声が耳を打った。

「やぁ、陽和」

「もう、遅――」

 遅いじゃない。そう口にしたつもりだった言葉は、それを目にした瞬間、掠れ、途切れてしまった。

「陽向…⁉ ちょっと、変じゃない? す、透けてる……?」

 陽向は無言で頷いた。
 背後に立つ陽向を捉える私の目は、その身体を透かして、向こう側に存在しているはずの景色をも捉えていた。
 薄れ、まるでこれから消えゆくように。

「ど、どうしたの、眠いの……? あ、そっか、疲れてるんだ…! もう、早く言ってよ、まだもうちょっとくらい休んでくれてても――」

「陽和」
 陽向は被せるように私の名前を呼んだ。
 首を横に振って、その気遣いを遮った。

「分かってる筈だよ。君が強く願っても、僕の方もそれを容認しても、もうしばらく、ここに来られなかった事実に。気付いてるでしょ?」

「そ、それは……」

「ごめんね。一つ、隠していたことが——いや、勘違いしていたことがあった。ううん、やっぱり、そのどっちもだ」

「か、勘違い……?」

「うん。とっても大事なこと。よく聞いてね」

 いつになく真剣な眼差しに、声に、私は少ししてから黙って頷いた。

「僕はこの空間について、君に干渉する為に創り出し、そこに君が願いや夢の象徴であるピアノを創り出したんだって、そう言ったよね」

「う、うん……」

「それが、間違いだった。あれは――ピアノは、君だけじゃない、僕の願いでもあったんだよ」

「願い……それって、私に干渉するためじゃなくて?」

「うん。僕の……そうだな。思い、かな」
 陽向は背を向けて、上の方に目をやった。

「ピアノを失ってしまった君に、弾く為に力を思い出させるための空間――いや、それも違うな。君が欲しがっていた才能の欠片は、双子である僕の方が強く持った状態で分かれてしまったんだ。だから、ここはそれを譲渡する為の空間だった、とでも言えばいいかな」

「じ、譲渡……? 陽向に、ピアノを弾く才能があったってこと?」

「弾く力じゃない。読む力さ。君が唯一出来なかった、ピアノを弾く為に必要なもう一つの力。本来、僕らは一つだった。双子として分かれていなければ、そのどれをも持って生を受けていたはずだ。けれど、僕らは分かれてしまった。いくら双子だと言っても、全く同じ人物なんていないからね」

「ちょっと待って、言ってる意味が……譲渡ってどういうことなの?」

「陽和だって、本当は気付いてるんじゃないのかい? ここで読んだ、練習したことは、現実の世界でも使えるものになった。が、その代わりに、ここへ来られる頻度も少なくなってきていたことに。そう、まるで、その二つが比例しているかのようにね」

 陽向の言うそれは、私自身、何となく気にかかっていたことでもあった。
 読めば読むほど、弾けば弾く程に、気持ち悪さはなくなっていって、向こうでの力も確実についていって――その代わりとでも言うように、ここへはあまり来られなくなっていた。
 でもそれは単なる偶然で、別にそれが関係している訳ではないんじゃないか、と私は反論したけれど、陽向ははっきりと首を横に振って否定した。

「干渉したがった理由が、ここを創り出した理由こそが、僕がまだ君に伝えていないことなんだよ」

 確かに、その具体的な話はされていなかった。
 双子だったから、もう一つの命がくっついてしまったという話を聞いただけだ。
 陽向はまた、私の方へと向き直った。どこか寂しそうにも見える目で。

「僕は、それを持っていることを知っていた。君の中で自我を持った時に自覚したんだ。けれど、それを本当に欲しているのは君の方だった。だから、それを渡す為の――くっついてるだけで眠ったままのそれを目覚めさせるために、僕はこの空間を創り出したんだよ」

「目覚め、させる……」

「一度は二つに分かれかけて、しかしくっついて……そろそろ、それが完全に溶け合い、一つになろうとしている。だから僕は、何としても君にこの力を託さないといけなかったんだ」

 陽向は苦しそうに笑った。

「はっきりとした目的の為に創られたこの空間は、勿論それを遂行する為の場所だ。達成されれば、いやそうでなくとも、じきに消えてしまうことだろう。必要がなくなるからね」

「消えるって……ちょっと待ってよ、何で、おかしいじゃん…! 一緒にいるって言ったでしょ⁉ 消えるとか、嘘だよね……?」

 震える声で言いながらも、私は何となく理解していた。
 学習障害というものは基本治らない。それが、ここに来たことで、治ったかのように楽譜を読めるようにもなった。

 それはつまり、楽譜が読めないということの原因が、障害によるものではなかったということだ。
 幼い頃の私は、読んだ楽譜は同じように見えるのに、それを見たままに書くことが、奏でることが出来なかった——読むための力、という言葉からも考えると、『整理』という工程が出来なかっただけなんだ。
 この数ヶ月の成長は、現実で得た情報を一旦は夢であるここへと持ち込み、そこで陽向が整理したものを反芻することで、現実でも成せるようになっていた――以前感じた『無意識ではなく意識』の夢であるといことから考えても、ここは頭の中にある物事を整理する為の場所だったんだ。

 逆を言うなら、今また弾けない、読めないようになっているのは、数日とは言え考えることをやめ、整理という工程を全く行わなくなってしまったから。
 こっちで読んで、弾く程に、向こうでも気持ち悪さを感じなくなっていたのは、その能力がしっかりと備わりつつあり、それに身体もついていけるようになっていたから。
 以前『現実で見た楽譜を夢で起こされることで読めるように、弾けるようになる』と感じたのは、間違いじゃなかった。

「これまで陽和が驚異的な速度で成長出来ていたのは、僕がその処理役を担っていたから。本来ある処理速度に、身体を慣れさせる必要があったからね。もう間もなく、僕の意識はなくなる。けれど、それは本来君が持っていた筈の能力だ。僕がいなくなっても、君は思う通りにピアノを弾くことが出来るようになるんだ」

「そんな――でも、そんな急に消えるなんて……」

「急に? いいや、僕は確かに言った筈だよ。『時間の許す内は、僕が君の先生だ』ってさ」

「言ってた、けど……」

 確かに言っていた。
 でもそれが、ここにいる間は、という意味でなく、消えるまでの時間は、だったなんて。

「……嫌だよ」

 私は小さく拒絶した。
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