このたび、乙女ゲームの黒幕と婚約することになった、モブの魔法薬学教師です。
 湖のほとりを歩いていると、上空を舞うグリフォンが影を落として通り過ぎていく。

 ノエルは領民の子どもたちのために魔法で水の球を作っていた。
 子どもたちにせがまれて、いくつも作っては宙に浮かべている。

 近づくとすぐに気づいてくれて、二人で木の下に移動して腰かけた。

 遠くではトレントと子どもたちが遊んでいる声が聞こえてくる。

「ノエル……ごめんなさい。契約結婚のこと、ロアエク先生にバレてしまったの」
「さっきジルから聞いたよ」

 予想はしていたけど、ノエルはもう私の失敗を知っていた。
 彼の気持ちを探ろうにも、顔を見たところで表情からはなにも読み取れなくて。

 だけど、ノエルだってロアエク先生には知られたくなかったはずだ。

「先生はなんでもお見通しだから、バレると思ってた」
「そうだったんだ」
「進路を決める時も先生にはなにも隠せなくて、心配させてしまったんだ」

 ノエルも進路を決める時は悩んでいたんだ。
 そつなくこなしていそうな彼だから意外に思う。

「ノエルは、さ。進路を決める時どんな感じだったの?」
「僕の場合は、魔術省に入るように決められていたから悩むことはなかったよ」
「え?! じゃあ、ノエルが希望して魔術省に入ったんじゃないの?!」
「実は、そうなんだ」
「どうして?」
「父上と遠い親戚が話し合って決めていてね。その道に進むように言われていたんだ」

 寂しそうに微笑むノエルの顔を見て、察してしまった。
 自由に決められたと思っていたけど、そもそも彼に自由なんてない。

 なんとなく、誰に決められたのかはわかる。
 ノエルの自由を奪っているのは国王陛下だもの。
 理由はわからないけど、ノエルを騎士にしたくなかったようだ。

 どうしてそんなにもノエルを苦しめるの?
 ノエルはなにも悪いことをしていないのに。

 国王陛下がなにもしなかったら、ノエルは復讐に燃えることもなかったはず。

「本当はなにになりたかったの?」
「先生だよ」

 これもまた意外だ。

「じゃあ、ノエルは夢を叶えたのね」
「ああ、遠回りしたけど叶えられた。夢を叶えて、また新しい夢ができたんだ」
「どんな夢?」
「いまは秘密」
「ケチ」

 いつか言ってくれるなら、まあ、いいか。
 ちょっとだけかもしれないけど、ノエルとの信頼関係が前進している気がする。

 前進しているからこそ、ちゃんと彼に言っておきたい。

「ノエル、いきなり契約結婚を持ちかけて、ごめんなさい。いまになって考えてみると、失礼な話よね」

 生徒たちを守るためだと思ってしたことだけど、ノエルの立場になって考えられていなかった。あの時のノエルは、ロアエク先生を失いそうになって、傷ついて苦しんで、焦燥に駆られていたのに。

「こんな私のこと信じられないだろうと思うけど、ノエルのこと幸せにするから。それだけは覚えておいて」
「……レティシア、手を出して」

 言われたとおりにすると、ノエルはどこに隠していたのか、花で作った指輪を取り出して、私の指にはめてくれる。

「一年前の今日のこと、覚えてる?」
「いちねん、まえ、か」
「その様子だと覚えてなさそうだな」
「待って! 今すぐ思い出すから!」

 しかし悲しいことに、いくら頭を捻ってもこれといったものが思い出せない。

 一年前は失恋&酔いつぶれ事件があってからいろんなことがあって、怒涛の毎日だった。
 怒涛の毎日は、今も同じかもしれない。

「予想はしてた」

 ノエルはわざとらしく肩を竦めて溜息をつく。

「なによう、バカにしてるわね?!」
「呆れてるだけだよ」

 そんな風に言われるとなおさらバカにされたように思えるんですけど。

 言い返そうとすると、ノエルは人差し指を口元に当てて「黙れ」と言ってくる。育ちのいいノエルは黙れなんて粗い言葉遣いはしないけど。要は静かにして欲しいらしい。
 どういうつもりかわからないけど、彼の様子を見守ることにした。

 私が言い返さないのを確認したノエルは、口元に当てていた指をそのまま花に向ける。

変化せよ(イルシオン)

 花は光に包まれながら姿を変えて、光が消えると金色の指輪に代わっていた。
 植物の葉の意匠で形作られた環には色とりどりの魔法石があしらわれていて、手を動かすと七色にきらめく。

「今日は僕たちが婚約した日だ」
「お、覚えていてくれていたの?」
「むしろレティシアが忘れていたのに驚いたよ」
「ちょっと記憶の端に移動していただけよ」

 そう、完全に忘れていたわけではない。
 ちょうどこの季節だったのは覚えていたんだもの。

「あの日のことはこれからも忘れないから。絶対に」
「そ、そう。私ももう忘れないわ」

 いま一度心に刻んでおけということでしょうか。

 ノエルの紫水晶のような瞳にじっと見つめられると、冷や汗が出てしまう。

 あの時にサインした契約書の文面のことを考えると足が震えそうだ。
 ノエルと交わした契約を破れば、契約書にかけられた魔法が発動して心臓を潰されてしまうんだもの。

 思い出すと怖くなってきた。
 話題を変えよう。

「ゆ、指輪ありがとう。私もノエルになにか贈りたいわ」
「じゃあ、髪を触らせて」

 聞き間違えかもしれない。
 婚約記念日に髪を触りたいだなんて、恋愛小説のヒーローでも言い出さないと思う。

「髪を? 私の?」
「ああ、いつもは下ろしてないから今日だけは下ろして欲しい」
「だ、だって私が髪型を変えると誰も認識してくれないんだもん!」
「僕は分かる」
「確かにノエルだけは気づいてくれるわね」

 たとえ髪を下ろしていようがいつもと違う結い方をしていようが、ノエルは気づいてくれた。

 なんて納得していると、ノエルは私の髪を解いてしまった。
 壊れ物に触れるように髪を撫でて、梳いて、耳にかけてくれる。
 
 迂闊だった。

 手を繋ぐことだって何度もあったから大丈夫だと思っていたのに、いざノエルが髪を触っていると緊張するし、手が耳に当たると、心臓がバクバクと音を立て始めた。

「さ、触り心地はどうよ?」

 いたたまれなくなって茶化してみたのに、ノエルはふわりと笑うもんだからますます心臓の音がうるさくなる。

「落ち着く」 
「こんな髪でも役に立って良かったわ」

 ノエルはそのまま一房を掬って、そっとキスした。
 ノエルは落ち着くというけど、私は全く落ち着けなかった。
 いつもと違うノエルの様子にソワソワしてしまうから。

 逃げ出したくなるのに、離れて欲しくないとも思ってしまって……いやいやいや、なにを考えているんだ私は。

 心臓は爆発しそうで、頭の中にはいろんな感情がぐるぐるとまわっている。
 混乱してしまっているところ、足音がして振り向けば、仏頂面のトレントが立っていた。

「チッ、ベタベタしやがって。帰るぞ。エディットが待ってる」
「ええ、そうしましょう!」

 トレントに続いて帰ろうとすると、ノエルが手を差し出してくれる。重ねた手は温かくて、優しく握ってくれて。
 彼の手を握って安堵を感じるのは、私の方がノエルに懐いてしまったからなのかもしれない。

 ロアエク先生の元に戻る帰路の中、彼と過ごしたこの一年を振り返った。
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