紅色に染まる頃
すっかり日常生活を取り戻し、美紅は小笠原が手掛けるカフェやレストランの仕事に戻っていた。

花が美しく咲き誇る穏やかな季節になったからか、ガーデンレストランでは毎週末にウェディングパーティーの予約が入っており、美紅も現場を手伝って忙しく動き回る。

夜には、臨月に入ったエレナの代わりにバーでピアノを弾く日々が続いていた。

この先もずっと、こんなふうに穏やかに日常が過ぎていく。
そう思っていたある日、美紅は父に呼ばれて和楽庵に来ていた。

「美紅に相談があってね。春のご膳を試食した感想と、あと、夏に向けてのメニューについて聞かせてもらいたいんだ」
「かしこまりました」

久しぶりに振り袖を着て、二人で2階の和室に座る。

「失礼致します。美紅お嬢様、お久しぶりでございます」
「こんにちは。ご無沙汰しておりました」

顔なじみの女将がにっこりと美紅に笑いかけ、お茶を淹れてくれる。
だが美紅は、お盆に湯呑が3つあるのに気づいて首を傾げた。

さり気なく向かいに座っている父の様子をうかがうと、腕時計に頻繁に目を落とし、時間を気にしている。

「父上」

美紅の声が冷たく響き、父はビクッと身体をこわばらせた。

「ど、どうした?美紅」

思わず裏返った父の言葉に、美紅はあることを確信する。

「本日はメニューの相談とうかがって参りましたが、間違いありませんか?」
「あ、ああ。もちろんだとも」
「では早速お料理を」
「ま、まあ、そんなに焦らなくても。まずはお茶でも飲みながら、ゆっくり話をしようじゃないか」

美紅はじっと父に鋭い視線を向ける。
耐え切れなくなった父が目を逸らすと、美紅は小さくため息をついてからおもむろに立ち上がった。

「美紅、どうした?!」
「どうやら嵌められたようですので、これにて失礼致します」
「ま、待て!何のことだ?」

焦って引き留めようとする父に背中を向けて、美紅が襖を開けた時だった。

「おや、お得意のトンズラですか?」

聞き覚えのある艶やかな低い声が聞こえてきて、美紅はハッと顔を上げる。
そこには、いるはずのない伊織が立っていた。
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