紅色に染まる頃
「本堂様、今夜は本当にありがとうございました」
「どういたしまして」

美紅をマンションまで送るタクシーの中で、二人は互いに頭を下げて微笑み合う。

美紅の表情は、見違える程明るくなっていた。

(彼女には、あの時間が必要なんじゃないだろうか)

森のような庭を歩き、月明かりのラウンジでピアノを弾く。

あの場所は、美紅にとって本来の自分を取り戻せる場所なのかもしれない。

タクシーの中で考え込んでいた伊織は、ある事を思いつく。

やがて美紅のマンションに着き、車を降りる美紅に手を差し伸べてから、伊織は美紅と向き合って話を切り出した。

「京都の計画が無事に終わるまで、うちのマンションに住まないか?」
「…え?」

突然の話に、美紅はキョトンと首を傾げる。

「うちのって、先程の本堂様のマンションに、ですか?」
「ああ。空いている部屋があるから、そこに越してきたらいい」
「え、あの、それは一体なぜ?」
「んー、そうだな。須賀が送り迎えしなくて済むように」

ハッと美紅は目を見開いた。

「申し訳ありません!須賀さんに負担をかけてしまっていて。そういうことでしたら、わたくしは今後電車で…」
「いや、違うって!それは単なる冗談」

はあ…、と美紅は気の抜けた返事をする。

「君がここでひとり暮らししているのを、以前から気になっていたんだ。小笠原の令嬢ともあろう君が、いくら何でも危険すぎる」
「いえ、セキュリティーはしっかりしていますし、いざとなれば相手を投げ飛ばしますから」
「そ、それはそうだろうけど…。いや、違う。そうじゃなくて」

伊織は少し視線を逸らしてから改めて口を開いた。

「君はうちのマンションに住むべきだと思う。朝日が眩しく射し込む部屋で目覚めて、ウッドデッキから緑の森を眺める。夜になると庭を散歩して、月明かりのラウンジでピアノを弾く。そんな毎日を送れば、君の心は癒やされていくと思う。それに京都の宿の計画に対するアイデアやインスピレーションも、生まれてくるんじゃないかな?」

美紅は伊織の言葉を聞きながら、胸がわくわくするのを感じた。

(なんて素敵な毎日になるのかしら)

だが、軽々しく頷く訳にもいかない。

「あの、大変ありがたいお話ですが、これ以上お世話になる訳には…」
「どうして?一緒に仕事をする間、そうしてくれた方が俺も助かるんだ」
「ですが…」
「ああ、まあ、確かにそうだな。君は名家の令嬢だ。それなら紘さんに聞いてみてもいい?」
「は?兄に、ですか?」
「うん。許可をもらえればいいでしょ?」

そう言うと、早速スマートフォンを取り出して電話をかけ始めた。

「もしもし、本堂です。はい、今無事にマンションまでお送りしました。ところで紘さん。小笠原家のご令嬢ともあろう方が、このようにひとり暮らしをしているのは心配でなりません。私のマンションに空き部屋がありますので、しばらくの間かくまっても構いませんか?」

かくまう?と美紅はギョッとしながら伊織の様子を見守る。

「はい、はい。いやー、それはさすがに。あはは!」

どんな会話をしているのか、伊織は面白そうに笑っている。

「かしこまりました。はい、必ず。では失礼致します」

通話を終えると、美紅ににっこり笑いかけた。

「是非そうしてくれ、だって。明日は土曜日だから、11時頃に迎えに来るよ。ひと通り荷物をまとめておいてくれる?あ、家具は全て揃ってるから、身の回りの物だけでいいよ。じゃあまた明日。おやすみ」

一方的にそう言うと伊織はタクシーに乗り込んで、あっという間に去っていった。
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