ガラスのピアノは涙にきらめく ~御曹司を誘拐したら冷たく溺愛されました~
 従業員のふりをしている群咲桜空(むらさきさくら)は、目的の人物を見てごくりと唾を飲み込んだ。
 人いきれの中で、なぜか彼だけが輝いて見えた。
 姿勢のいい背の高い男性だった。5歳年上の31歳だと聞いている。誠実そうな整った顔だちに黒い髪。
 何度も写真を見て確認した顔だった。
 日本最大にして最高の財閥、八菱財閥の御曹司で八菱重工業の副社長。
 恵まれた境遇に育ち、将来を約束された人物。
 桜空は歯を食いしばる。あまりに自分と違う。違い過ぎる。
 彼は今、都内のホテルで行われているパーティー会場で多くの人に取り囲まれていた。
 仕立ての良いスーツを着て口元にはやわらかい笑みを浮かべている。が、その目は鋭く周囲を見ている。
 一歩を下がった位置にさりげなく警護がついていた。
 あの警護はほかの人がひきつける予定だ。
 パーティーが終わって帰ろうとしているときが勝負だ。
 桜空は震えそうになる自分を叱咤して、そのときを待った。

 退屈なパーティーだった。
 いや、あの手のものが楽しかったことなどあるか。
 思い返し、八菱漣(やつびしれん)はうんざりする。
 主催者側には八菱家の漣が出席しただけで箔がつくメリットがあるが、彼にはなにもない。
 絨毯の敷かれた廊下を歩いてエレベーターに向かう。
 ふと、警護がいなくなっていることに気が付いた。
 おかしい。
 思った直後。
 眼前に現れた女が小型のナイフを彼に向けた。
「動かないで」
 女は震えていた。
 なんだこいつは。
 彼は動揺もせず、侮蔑の目で見下ろした。
「あなたを誘拐します。死にたくなければ一緒に来てください」
 脅しの声すら震えていて、彼は口の端に冷笑を浮かべた。
「面白い。しばらくつきあってやろう」
 退屈にうんざりしていたところだ。
 この女はどこまで楽しませてくれるかな。
 彼はくくっと咽喉を鳴らして笑った。
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