龍神の100番目の後宮妃
 大広間にて、劉弦は玉座に座り酒を片手に、順番にやってくる家臣からの祝いの口上を聞いている。
 丁寧ではあるがじくじたる思いを隠しきれていない黄福律から始まったそれは、だんだんと様子が変わるのを感じていた。意外なことに貴人の妃の父親たちは、翠鈴の懐妊を心から喜んでいるように思えた。

「陛下のお世継ぎが生まれましたら、この国は安泰にございます。領地の民も喜びましょう」

「翠鈴妃さまに健やかにお過ごしいただけるよう、娘にもよく言ってきかせます。近頃はともに散歩をさせていただいているようで」

「私どもの領地の特産品は身体を温めて懐妊中に飲むとよい茶がございます。娘に持たせますゆえ……」

 国のため民のために、世継ぎの誕生を心から願う彼らの穏やかで澄んだ目を見つめながら、劉弦はさっき翠鈴を取り囲んでいた妃たちを思い浮かべていた。
 互いに互いを思い合い、足りないところは補い合う。初代皇帝が惹かれた人の姿。その心を取り戻す者が、じわりじわりと増えている。翠鈴が来たことによって。

「陛下、翠鈴妃さまのご懐妊を心よりお祝い申し上げます」

 最後に祝いの口上をあげにきたのは、九十九番目の妃の父親だった。

「翠鈴妃さまは、慣れない環境で気鬱の病に罹りそうになっていた娘を救ってくださった恩人です。これからは私も翠鈴妃さまを娘と思いお支えしたいと思います。娘からも手紙でそうするよう言われておりますゆえ」

 都から遠く離れた領地を治めるその家臣は、民思いの穏やかな人物で知られている。劉弦はさっき、翠鈴を着飾らせてみせると張り切っていた芽衣を思い出しながら頷いた。

「そうしてもらえるか? 彼女には身寄りがない。急にここへ連れてこられて寂しい思いをしていたのだ。芽衣妃の心遣いをありがたいと思う」

 素直な思いを口にする。彼女を大切にするとはいっても皇帝である劉弦は、ずっとそばにいられるわけではない。ひとりでも味方がいてくれると心強い。
 感謝の言葉を口にした皇帝に、芽衣の父親が驚いたような表情になり、次の瞬間破顔した。

「これはこれは……! お熱いですな。よほど翠鈴妃さまを愛おしく想われているようだ」

「あ……、いや」

 その彼の反応に、むずがゆいような気持ちになって、劉弦は咳払いをする。
 芽衣の父親が柔和に微笑んだ。

「よいことにございます、陛下。娘からは翠鈴妃さまのお人柄はよくよく聞いております。もう娘は、翠鈴妃さまに夢中のようでして、その翠鈴妃さまをご寵愛される陛下を心から尊敬しているようです。……末長く、仲睦まじくいらっしゃるよう親子共々願っております」

 そう言って彼は下がって行った。
 落ち着かない気持ちを抱えたまま、劉弦はその彼を見送った。

 ——愛おしく想う。

 それは、本来であれば人と人との間に存在する感情で、彼らはその気持ちを何よりも大切にする。だからこそ劉弦は、さっき衣装のことで揉めている場を収めるためにその言葉を使ったのだ。便宜上、彼女を愛おしく思うと言えば、人である彼らは納得する。
 そのはずだったが……。

「翠鈴妃さま、おなりにございます!」

 妃用の扉の向こうで従者の声が聞こえる。大広間が静まりかえった。素早く視線を走らせると、翠鈴妃の支度をすると張り切っていた妃たちはいつのまに席に戻っていた。互いに顔を見合わせて嬉しそうに微笑んでいる。

 ——そして。

 ゆっくりと開いた扉の向こう現れた翠鈴の姿に、思わず劉弦は息を呑み立ち上がりそうになる。
 彼女は、ほっそりとした薄緑色の飾り気のない衣装を身につけて、髪をひとつにまとめ薄化粧を施していた。白い鈴蘭の髪飾りと、耳飾り、細い金の首飾り。少し控えめなのは、それほど裕福ではない貴人たちが持ち寄ったものだからだろう。それでも翠鈴がまとう清廉な空気にはぴたりと沿っているように思えた。
 今まで劉弦は、人が綺麗な衣装を身にまとい自らを美しく見せることにまったく興味が湧かなかった。神にとっては外見などどうでもいいことだからだ。でも今は、どうしてか彼女から目が離せない。

 ——美しいと、心から思う。

 戸惑いながら周囲を見回す澄んだ瞳、羞恥に染まるふっくらとした頬。今すぐそばへ駆け寄って抱き上げたいという衝動を肘置きの上で拳を握りなんとか耐えた。
 自身なさげに一歩一歩、ゆっくりとこちらへやって来る彼女に、大広間の者たちも皆、驚き感嘆のため息をついている。
 自信なさげな翠鈴に、彼女を着飾らせた妃たちが励ますように頷いたり、手を叩いたりしている。

「翠鈴妃さま、ご懐妊おめでとうございます!」

「健やかなお世継ぎの誕生を心よりお待ち申し上げます」

 黄福律と華夢、貴妃たちがにがりきったような表情でそれを見ているが、彼女と彼女の父親たちの祝福の声は止まなかった。
 少なくない自身への温かい言葉に、翠鈴が、安堵したようにわずかに笑みを浮かべる。そして、劉弦を見た。
 その視線に、劉弦は息を呑む。胸が焼けるように熱くなった。

 ——愛おしい。

 それは、神である自分にはなかったはずの感情で、はじめて感じる想いだった。
 それでも、はっきりとわかる。
 彼女にそばにいてほしいと願うのは、彼女が翡翠の手の持ち主だからではなく。ただ、愛おしいからなのだ。ひと筋だけ首にかかる翠鈴の黒い髪。その艶のある黒を見つめて、劉弦はそう確信していた。
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