ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

3 『弟を誑し込んだわね』

多恵は、離れ家の月見台に佇み、ぼんやりと夜の庭を眺めていた。

足下の洲浜から広がる池に、下弦の月が揺れている。対岸の楓や松の奥に見える檜皮葺の草庵は、かつて城下にあった幸村の商家から移築した茶室だ。

祖父が道楽三昧に建てた屋敷は、木々に包まれた四千坪の敷地のなかに、東に池泉廻遊式庭園、南にバラを中心としたイングリッシュガーデンが造園され、重厚なモダニズム数寄屋建築の母家と、書院造の離れ家を囲んでいる。

多恵はこの家で生まれ、この家で育った。

幼い頃は祖父母に両親、そして使用人たちも多く、賑やかな日々だった。
半ば〈ゆきむら〉の別館で、祖父の知己たちなどは旅館ではなく、この離れに長逗留することさえあった。

これだけの庭だから、維持管理にも莫大な費用がかかる。

池には裏山から湧水が引かれており、手をかけずとも清らかな流れが自然浄化してくれていたが、その水も近年はすっかり細くなった。無謀な山林開発やトンネル工事によって、水脈が変わってしまったのだ。

主のように棲みついていた鯉も亀も、昨年のゲリラ豪雨で氾濫した水に押し流され、用水路へと姿を消した。
なかには数百万の錦鯉もいたと、航太は躍起になって捜索したけれど、古い家に囚われ続けてきた彼らにとっては、天の恵みだったのだと、多恵は思う。
願わくば、川に辿り着き、自由に生き延びていて欲しい。

けれど、樹木たちは逃げることができない。
人の手で育てられた庭の木々は、放置すれば病気や害虫に蝕まれてしまう。
この二年で、多恵の蓄えのほとんどが庭師への支払いに消えた。

それでも、四季折々の姿を観せるこの庭は、金銭には代えられない。

冬には、椿咲く露地の石灯籠やつくばいにしんしんと雪が降り積もり、梅やロウバイが寒さに耐えながら慎ましやかな芳香を漂わせる。

春には、桜の花びらが池一面を埋め尽くし、新緑の頃には、正門から続く小径に可愛らしいサツキやクレマチスの花が咲き、藤棚で薄紫のカーテンが風に揺れる。

薔薇が色とりどりの花の盛りを迎えると、睡蓮の池では蛍が水面を舞う。梔子や泰山木が甘い香りを放つ初夏、イングリッシュガーデンのイソトマやブルーサルビアが涼しげな花を咲かせる。

金木犀が薫る秋には、遣水のほとりに高貴な菊や萩が咲き誇り、艶やかな錦繍に庭全体が燃え上がる。

しかし、今年の紅葉を観ることはないだろう。

多恵はやるせない溜め息をついた。

いつになく感傷的になっているのは、久しぶりのアルコールのせいかもしれない。
帰郷してからはテイスティング以外の酒を断っていた。今夜は呑まずには眠れそうにない。
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