意地悪で不愛想で気まぐれだけど大好きなあなたに、おとぎ話が終わっても解けない魔法を
 拗ねたエディを宥めるのにひと苦労したが、リーゼは晴れてネザーフィールド社の経理お手伝いとして雇ってもらえることとなった。

 浮かれたリーゼは、ブライアンとハンナが帰宅するとすぐにそのことを話した。
 二人とも急な事態に驚いたが、社名と契約書類を見せると安心し、応援の言葉をかけてくれた。

     ***
 
 その夜、試験勉強中に喉が渇いたリーゼは台所へ行くことにした。
 真っ暗な廊下の先にある台所の扉の隙間から、仄かな明かりが零れている。
 
(誰か起きているのかな?)
 
 とはいえ、とても静かだ。家の中は宵闇と静寂に包まれており、この家自体も寝静まっているように思える。
 もしも両親がいるのなら、声が聞こえてくるだろう。ということは、あそこにいる人物は自ずと絞られる。

(ノクターンがいる……のよね?)

 途端に胸が高鳴った。両手でそっと胸元を押さえ、足音を忍ばせて台所に近づく。
 扉をゆっくりと開くと、食器や鍋を洗っているノクターンと目が合った。

「お、おかえり。今日は早いね」
「そうか? いつもと変わりないだろ」

 ノクターンはリーゼが作った夕食を全て食べてくれたようだ。
 空っぽになっているお皿を見ると嬉しくなり、頬が緩む。

「夜食がいるのか?」
「ううん。喉が渇いたから水を飲みに来たの」
「……少し、座って待っていろ」

 そう言い、ノクターンはグラスとレモンとミントを取り出す。このミントは、窓辺で育てているものだ。
 座っているリーゼの目の前でグラスに水を注ぎ、レモンの果汁を入れて少しかき混ぜた。そこにミントを乗せると、リーゼにグラスを手渡す。

「懐かしー! 故郷でよく作ってくれていたレモン水だー!」
「騒ぐな。ブライアンとハンナが起きるだろ」

 はしゃぐリーゼの頭の上に、掌をぽんと乗せて諫めた。
 頭に触れるノクターンの掌の大きさや温かさにときめいたリーゼは、ドギマギとしてすぐに静かになった。
 
 気を紛らわすためにグラスを傾け、ひと口飲む。
 レモンとミントの香りが口の中に広がり、すっきりとした喉越しだ。
 
「美味しー! やっぱりこの味好き!」
「……変わらないな。都会に来たら、もっと洒落たものを好むようになると思っていたのに」
 
 ノクターンが隣の椅子に座る。静謐な森を思わせる瞳がリーゼを優しく見守る。

(……あ、まただ……)

 なぜか、ノクターンの瞳が仄かに光を宿しているように見えた。
 
「このところ気落ちしているように見えたが、もう大丈夫なのか?」
「え?」
「口数が少ないし、俯いてばかりだったから」
(誰のせいでそうなったと思っているの?!)

 ノクターンが自分を避けるから、ノクターンがいつの間にか見合いの話を貰っていたから、不安でしかたがなくて落ち込んでいたというのに。
 その原因となる人物が理由に気づいていないのが腹立たしい。

「そうだよ。落ち込んでいた。ノクターンが私を避けてばかりだから辛かったの」
「――っ、そんなことはしていない。仕事で帰りが遅くなっていただけだ」
「本当に?」
 
 問い質すように見つめると、翠玉のような瞳が微かに揺れた。

(本当はお見合いのことも聞きたいけど……でも、ノクターンの返事が怖くて聞けない)
 
 告白の返事さえまだで貰っていなくて不安だ。それなのに見合いの話を聞くのは並々ならぬ勇気がいる。もしもノクターンが前向きに検討していたら、と思うと、立ち直れる自信がない。

 リーゼはのろのろと立ち上がる。グラスを洗い、食器棚に戻した。
 幸いにもグラスを洗う間はノクターンに背を向けられるため、いまの表情を知られずに済んだ。きっと、酷い顔をしていたはずだ。

「そういえば、放課後に働くそうだな。さっきブライアンとハンナから話を聞いた」
「うん。ネザーフィールド社ってとこで働くことになったの。今日雇ってもらったよ」
「無理するなよ」
「大丈夫。学生だから勤務時間を調整してもらっているの」
「……なにかあればすぐに言えよ。その時は国軍本部に来てもいいから」
「え? 前は来るなって言っていたくせに……」
 
 頬を膨らませて抗議すると、ノクターンの手が両頬を包んだ。

(また、子ども扱いしている)

 不服に思う一方で、彼に頬を触れられると、胸をくすぐられる心地がした。幸せな感覚だ。

「それとこれとは話が別だ。リーゼの安全が一番だからな」
「……また子ども扱いしている」
「まだ子どもだろ?」
「もうすぐ成人するもん」
「……早いものだな」
 
 ノクターンの手がリーゼの頬から離れる。大きくて温かな掌が離れると、今度はひんやりとした夜の空気に晒された。
 
 それを寂しく思ったリーゼは、ノクターンの掌に頬を擦り寄せたい衝動に駆られ――慌てて我慢した。そんなことをすると、やっぱり子どもだと思われそうな気がしてならないから。

(だけどもう少しだけ、ノクターンに触れたい)

 リーゼは迷った末に、決心した。今度は自分からノクターンに触れよう、と。
 
「じゃ、おやすみ」
「待って!」

 自室へ行こうとするノクターンのシャツの袖を掴み、引き留める。

「屈んで」

 ノクターンは言われるままに、その場で屈んでくれた。
 リーゼも少し体を屈め、ノクターンの顔に自分の顔を寄せる。

(心臓が口から飛び出しそう……)

 頬にかかる髪を耳にかけ、彼の頬に唇をそっと押しつけた。
 
「――っ!」

 ノクターンが息を呑んだ気配がした。
 一瞬だけ彼の頬が強張ったが、すぐに解ける。そしてリーゼの背に手が回された。
 
 抱きしめられているのだと、そう気づくのにしばし時間を要した。
 
「へへっ。昔に戻ったみたいだね」

 気づいた途端に照れくさくなり、はにかんでノクターンを見上げる。

「……ああ」

 なにかに耐えるような表情を見せたノクターンが、リーゼの頬に顔を寄せ、ちゅっと音を立ててキスをした。

(ええっ?! 待って……どういうこと?)

 頬に触れるのは、薄くて形が良くて柔らかな、ノクターンの唇。
 自分の頬の熱が、彼に伝わっている気がしてならない。
 
「お……お、おやすみ!」

 リーゼはノクターンの腕からするりと逃げ出すと、慌てて部屋の中に閉じこもった。
 
 そんなリーゼが、彼女の背後にいたノクターンもまた顔を真っ赤にしていたことなど、知る由もなかった。

     ***

 その後、部屋に戻ったリーゼは寝台の上を転がりまわり、盛大に暴れた。
 
「さっきのはなに?! 狡い!」

 ノクターンにキスされた感触を何度も思い出しては、込み上げてくる嬉しさと照れくささに混乱し、枕をドスドスと叩いて気を紛らわせる。
 
(不意打ちをしてみたのに、不意打ちで返されてしまった……)

 よもや不意打ちが成功していたことを知らないリーゼは、悔しさと嬉しさと恥ずかしさを胸に、眠ってしまったのだった。
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