春が追い付く二拍手前。

第四章 皐月

 私が彼女と出会ってから、八度目のあの日が来た。


「フユ、行くぞ」
「はいっ」
 彼女が白いカーネーションを抱えて玄関で待っている。私は、彼女の帽子をくわえると、たっと駆け出した。


「それにしても、今年の五月は暑いですね」
「そうだな。肌が日に当たるだけでヒリヒリして、先月までとは大違いだ」

 私は、肩の上から、彼女の白い肌を見ながら言う。

「ちゃんと日焼け止めを塗りましたか?」
「……塗ってない。面倒くさい」

 私はやっぱり、とため息をついた。

「あなたは、綺麗な肌をお持ちなんですから、もったいないですよ。ちゃんとお手入れしてあげればもっと綺麗になるのに」
「綺麗になってどうしろって言うんだ。別に、綺麗になったって、こんな変わった女、嫁にほしいと思う奴なんか、出てこないだろうし」

 彼女は、ふんと、そっぽを向いた。
 私は、慌てて首を振る。

「別に、嫁の貰い手を心配して、綺麗になれと言ったわけではありませんよ。
ただ、あなたが綺麗だと、私が嬉しいというか。そういう、私の希望を言ったまでです」
「……」

 すると、彼女は黙った。
 何だか、頬が赤い。

「お前の、希望なのか?」
「……? はい、そうですが」

「なんで、お前は私が綺麗だと、うれしいんだ?」
「いや、それはまあ…なんとなく?
たまに綺麗にしているあなたを見ていると、何だか、不思議なことに、口の端が妙に吊り上がりそうになるし、何だか、心惹かれるものがあるというか」

 自分で言いつつ、首をかしげる。
 要するに、何の感情だか。
 花が綺麗だと、自然と心惹かれるようなものだろうか?

「……」

 彼女は黙って歩きつつ、妙な顔をしていた。
 口はしっかり閉じているが、妙に端がもごもごと動いている。
 何かを聞きたそうで、けれど聞けない感じだ。

「今、何か言いたいこと、あります?」

 そう正直に聞いたのに、彼女は、「な、ないけど?」と返す。少々どもっているのが気になったが、言いたくないのならば仕方がないと諦めた。



「さあ、ついたぞ」

 そこは、霊園だった。この中に、彼女の母の墓がある。
 彼女はバケツに水を汲むと、慣れた足取りで、歩き始める。私は、線香の束を咥えて後を追いかけた。
 彼女は、花を供え、線香を立てると、手を合わせた。私も真似をして隣で手を合わせる。

「お母さん、お元気ですか? 私はそれなりに元気にやってます。
フユは、遊ぶことしか能がないので、毎日楽しく遊んで暮らしてますが、私は毎日忙しく大学で勉強と研究をしています。
心配しなくても、元気でやっていますので、お母さんもあの世で楽しく暮らしていてください。」
「余計な一言、毎回いらないんですけどねえ……」

 私は、じっとりとした目で、彼女を見たが、彼女は知らん顔である。
 彼女は、幸せそうに微笑みを口元に浮かべて、何かを心の中で伝えているようだった。
 せっかくの親子の時間を邪魔するのも、と思い直し、まあいいかと許す。

「さて、行くか。ほら、さっさと乗れ」
「はい」
 私は彼女の背を駆けあがり、彼女の肩に乗る。



 町を見下ろせる高台を通ると、町の建物は初夏の日で照らされ、美しく光を反射していた。
 ハイキング日和なのか、お年寄りやカップルが絶えず行きかっている。
 ふと、道のわきに座っていたカップルがキスをした。何だか、私は見ちゃいけないもののような気がして、慌てて目をふさいだ。すると、彼女は怪訝そうに言う。

「何だ、お前。そんなことぐらいで」
「だってえ……何だか視界に入れちゃ、申し訳ないような気分になりません?
……二人の邪魔をしてるような気分になりません?」
「いや、別に」

 その即答に、私はハアとため息をつく。

「ハル様はもう少し……なんというか、人間の心の機微と言うか情緒と言うか……そういうのを学んだ方が良いのではないですか?」
「………何だか、それをお前に言われると、ムカつくな」

 彼女の気配が変わった。いつもなら、こういうやり取りは受け流すはずなのに、今日は心の底から苛ついているかのような気配だ。

――しまった、地雷を踏んだ。

 と思った時には、彼女は歩みを止めて、私を肩から片手でつかみ下ろしていた。
 私は首根っこをつかまれてぷらんとなっていた。
 そして彼女は、顔の前に私をもってきて、半分は怒り、半分は……何とも形容しがたい感情の顔で、睨んでいた。

「じゃあ、素直に学んでやるよ。まず、私がお前にキスをすれば、いいんだな」
「ハア?! 何がどうなって、そういう話に……ッ、ちょ!」

 彼女が、唇を近づけてきた。私は慌てて口を両手でふさいで、防いだ。
 ぽふっと、腕に唇が当たった。ぎりぎりセーフ、と息をつく私に、彼女は不服そうに言った。

「キスから心の機微を学んでやろうとしたのに、なんで防ぐんだ」
「ふ、防ぎますよ! こういうのは、大事な相手とするもんでしょ、普通!」

 私は、ぜーぜーと息をしながら、言った。すると、彼女は少し、暗い顔をした。

「じゃあ、私がお前を大事だと言ったら――してくれるのか?」
「えっ……」

 その顔は、ひどく傷ついたかのようで――守ってやらなくてはと思う程、頼りなく――、うっかり頷きかけたが、我に返って慌てて首を振った。

「す、するわけないじゃないですか? だって、私は器械で、お人形みたいなもんですよ。大事って言ったって、器械か玩具かペットとしてでしょう?」
「……そうだな」

 彼女は、妙だった。自分で自分に言い聞かせているかのような、言葉だった。
 そして、彼女は、私を肩に乗せると、再び歩き始めた。
 けれど、先程までとは違い、空気が重たく、何かを話す気にはなれなかった。



 そうして、いつもの神社の前をさしかかった。彼女は通り過ぎかけて、しかし気が変わったのか回れ右をすると、石段を登り始めた。
 『行くんですね』と、いつもなら軽く声をかけられるのに、なぜか口は縫い留められたかのようで、言葉を掛ける気にはならなかった。

 石段の両脇には、赤、白、桃色のつつじが、各々己を主張するかのように咲き誇り、並んでいる。
 だけど、先程からの妙な緊張の為、私はそんなつつじの花達に見とれることもできず、石段も中段に差し掛かった頃、彼女がふと口を開いた。

「なあ」
「……はい」

 いつもより変に力を入れないと、返事がしづらかった。

「お前は大事な相手、っているのか?」
「大事な相手……?」

 彼女は歩みを止めると、私を肩からおろし、手の上へと乗せた。
 そして、私を見つめると、言う。

「お前には、大事な相手っているのか?」
「……?」

 大事な相手は、もちろんいるにはいるが。それは目の前の彼女で。
 だから、当然そう答えるまでで。

「そりゃいますよ。あなたですよ」
「……」

 彼女は、喜ぶでも、笑うでもなく、複雑そうな顔で私を見つめていた。
 サアッと風が石段の下から吹き上げた。新緑の木陰を揺らし、キラキラと空間がさざめく。
 彼女の、瞳も頬も、葉の陰から落ちる陽の光に、照らされ、
 私は、今の状況も忘れて、美しい、と思ってしまった。

「……それはどういう意味で、言っているんだ?」

 数秒の間、彼女に見とれていた私は、ハッと我に返る。

 どういう意味で?
 それは当然、

「ロボットとして、あなたをご主人様として楽しませ、あなたの快適な生活をサポートし、あなたを危険その他もろもろから守るということですよ」

 私は、彼女の両掌の上で、「えっへん」と胸を張って言った。

 すると、彼女は、なぜか笑った。
 とても寂しそうに笑った。

 小さく、「鈍い」と言ったのは、私の耳には届かなくて――。

「……なあ、お前って」

「なんでロボットなんだろうな?」

「…? そりゃ、ロボットですもの」

 私は、何を分かり切ったことを、と首を傾げた。
 彼女は、「ああ、そうだな」と答えた。
 彼女は無表情で――


「……」
 長年一緒に居て分かったことがある。
 彼女が、無表情になるのは、

 照れている事、
 都合の悪い事、
 悲しい事、
 図星を刺された事、
 怒っている事、
 恥ずかしい事、
 寂しい事、

 いつも、何らかの、誰かに知られたくない感情を隠している時だ。
 そうやって無表情の仮面をかぶって、人を遠ざけ、身を守る癖がある。

――なら、今回は何の感情を隠しているのだろう。

 勘ぐる私を、しかし彼女は、何も言わず肩に乗せた。
 その乗せ方は、いつもより、どことなく、雑っぽかった。
 何かを放ったかのような、適当さがあった。

――まるで、自身の何かの感情も、一緒に放るかのような――。

「お前は、器械、だもんな。そのはずだもんな」
「……? そうですよ?」

 私は頷く。彼女の表情は、横髪に隠れて見えない。

「……ハル様、なんかいつもと様子が違いますよ。なんかおかしいですよ?」

 私は、気になって、追いすがるかのように聞いた。しかし、彼女は首を縦に振る。

「そうだ、おかしいのは、私だ。だから――」
 彼女がこうまで素直に頷くのはおかしい。だから、私はもう一度問おうとして――だけど、彼女は、強い調子で遮った。

「だから、もうお前は何も気にするな」
「……」
「私も、気にしない、から。」
「……」

 彼女は、それ以上何も言わず、再び石段を登り始めたのだった。
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