春が追い付く二拍手前。

第六章 文月

「ハル様……なんでこんな暑い日に……」


 その日、私はあきれ半分に、部屋の中をせわしなく動く彼女を見ていた。
 彼女は何を突然思い立ったのか、部屋の掃除をしていた。万年、鳥部野の荒野を、なぜか自らの手で掃除し始めたのである。

「普通、こういう大掃除は、年末か、春先の、動いても熱くないときにするものですよ……」
「仕方ないじゃないか。なかなか時間を取れなかったんだから」

 彼女は、額の汗を腕で拭いつつ、ほっぺを膨らませた。
 そんな彼女に、呆れを隠さず言う。

「あのねえ……、ハル様。あなた、時間が取れなかったって言っていますけど、年末年始にお休み在りましたよね? それに、ゴールデンウィークもありましたし……。
庭をいじるか、機械をいじるか、寝るか、遊ぶか、ばっかりしてましたよね……」

 すると、図星を刺された彼女は、一瞬詰まり、目を少々そらして言った。

「そりゃ、休みは自分の好きなことをしたいし、日頃疲れているから寝たいし?
……それに、お前の抱き心地が良いから、寝てばっかりになるんだ」
「ちょ……なんで、私のせいですか……?」

 呆れた言い訳にため息をつく。だけど、何だかうれしいような不思議な心地がして、私は、それ以上、責めることはやめた。


 ふと、


「……ん?」

 積まれてある本の中に、珍しいことに絵本が入っていた。
 この部屋には研究書ばかりで、そんなものはないと思っていた。彼女の幼い頃のものだろうか。
 私は本の山から、それを一冊抜いてみる。

「『人魚姫』?」
 私は、表紙を見て、首を傾げた。

「……ん? お前、『人魚姫』、知らないのか?」
 彼女は、本棚を拭くのをやめて、ひょこっとこっちを見た。

「……人魚なら知ってます。足がなくて、代わりに魚のしっぽがついている化け物ですよね。海の中に生息しているという架空の生物で、食べたら不老不死になるって言う」
「お前、日本の方を知ってるのか……、夢のない奴……。人魚姫ぐらい、どこでも絵本で売ってあるんだから、それぐらい読んで知っておけよ。そんなんじゃ、現実的になりすぎて、楽しくないぞ将来」
「あなただけにはそれを言われたくない気がするのは、なんででしょうかね……?」

 私はそうつぶやくが、彼女は知らん顔である。


「……」
 とりあえず、私は、表紙を開いてみた。すると、彼女は、意地悪く笑った。

「人魚姫はな、暗くて救いのない話でな、どこぞの国の王子に恋した人魚が、その王子をトンビにから揚げ――他の女にかっさらわれる話で……」
「読む前にネタバレ、やめてください……」

 私は、慌てて耳を手でふさぐ。しかし、彼女は意地悪くも、私の両手を、自身の両手で無理やりに万歳させると、耳元にささやいてきた。

「昔々、海に美しい人魚のお姫様がいて、人魚って言うのは、実は正体は海の泡粒か藻屑で、長い寿命があるけど魂がなくて……」
「あーあーあーあー、何も聞こえなーい、私の耳は何も聞こえなーい」

 私は、大声を出して、必死に彼女の声が聞こえないようにした。
 だけど、彼女がくすくす笑いながら、無理やりネタバレを続けようとしていた時だった。

 部屋の扉がノックされた。

 入ってきたのは、この家で一番古い使用人の女性だった。どことなく、険しい顔で、彼女を呼ぶ。
 彼女も私を開放すると、ただならぬ雰囲気を感じたのか、外へと足早に出て言った。

――なんだろう。

 私は、不安に思った。
 絵本をそっと、元の本の山に戻し、ドアに耳をつける。

 一階の方に行ったのか、誰かと話しているようだが、良くは聞こえない。
 だが、椅子が倒れたのだろうか、激しい衝突音が聞こえて、私は慌ててペットドアから、廊下へと出た。

 私は、音の発生場所――一階の応接間へと、急いだ。

 そこにいたのは、彼女と、もう一人の男。
 そして、使用人の女性は、なぜか泣きそうな顔で、口に手を当てて、彼女を見ている。

 私は、何が起こったのか理解できない。しかし、彼女が、遥かぶりに見る男――彼女の父親を、壮絶に、憎むような顔をして睨んでいる所を見ると、大変なことが起こっている事だけは理解できた。
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