春が追い付く二拍手前。
「買い物~買い物~たのし~な~」

 その日の夕方。赤ん坊のお世話で忙しいもみ路さんのため、私は柾と桜さんと、近所のスーパーへと買い物に出かけていた。

「おかし、おかし~」
「こらっ、まて。勝手に走るな! また迷子になるぞ!」

 入るなり、とてとてと駆けていく桜さんを慌てて追いかける柾。

「あのね、あのね、お父さん。これと、これとこれ買って~」
「駄目だ、駄目だ。一個だけな」
「え~~けちぃ」

 私はそのやり取りを聞きながら、桜さんはやっぱりまだまだ子供だと、何だかほっとした。



 買い物を終え、柾が車に沢山の荷物を積みこむのを、手伝えないもどかしさで見ていた時だった。

「こんにちは」

 なんとなく、聞いたことのある声だな、と呑気に後ろを振り返った私は、そのことをすぐさま後悔した。

「……」

 目の前に、久しぶりに見る男が立っていた。


「久しぶりだね、フユ」
「……」

 それは、自身の生みの親――彼女の父親だった。私が最後に会った時よりも、はるかにやつれて老けていたが、見間違えるはずもない。

「柾君も久しぶりだね。随分と立派になって。君が大学に行った……ハルが四年生の時以来か」
「……」

 柾も何も言わず、黙っていた。今更現れたこの男に、柾もまた警戒しているのが分かった。
 桜さんを背に隠し、じっと睨みつける。
 そんな私たちの反応に、男はあきらめたかのように、無理やりつくっていた笑顔を消した。すると、やつれた顔が、尚更疲れ切って見えた。そして、居住まいを直すと、言った。

「……少し、頼みたいことがあってね」
「……」

 私は、何も言えず、ただ、男が口を動かすのを見ていた。

「フユを、返してもらえないだろうか?」


 は……?


 「今この男、なんといった?」と理解の遅い私より、柾が先に行動を起こしていた。
 さっと私をつかみ上げると、桜さんに抱かせ、その前に自分は守るように立ちふさがった。

「お断りします」

 柾は、はっきりとそう言った。すると、男は、少し困ったような顔をして、言った。

「……もとはと言えば、私が作って、ハルにあげた物だ……。嫁入り先にも居ないし、家に帰っても、使用人たちは何故か、頑として娘の部屋には入れてくれないし。
君なら何か知っていると思って聞きに来たのだが、まさか君が持っていたとは。……娘の遺品なのだから、返してはくれないかね」

「……お帰りください、三枝さん。あなたはご存じないかもしれませんが、フユの所有権は、既に私、御柳柾にあります」

 柾は、毅然として言った。

「……相続の話でいうのならば、私は彼女の生前……二年前に、彼女との間で、フユの譲渡の契約を結んでおります。嘘だと思うのなら、交わした契約内容の書面もあります」
「……いつの間に」
「そのいきさつも知らない程の呆れた男に、どうこうと説明するつもりも義理もないので」

 柾は冷ややかな目で、男を見た。


「え……」

 そんな話、私は初耳であった。そもそも、柾が私の知らぬ間に彼女と会い、そのような話をしていたなどと、寝耳に水だった。


 その話を聞いた男は、小さくため息をついたようであった。そして、うつむいて、何かをつぶやいた。
「……あの男から守るためか。……周到さだけは、完璧だったって言うのに……」

「なんで、あいつ自身は、あんなにもあっさりと……」


「……ぼそぼそ言うのはご勝手ですが、そこへ他人を巻き込まないでいただきたい。迷惑をかけるならよそへ行ってください。私たちはこれで失礼しますよ」

 柾は、桜さんの肩を守るように抱くと、車に乗せた。
 エンジンをかけるなり、「いつもと違う道を通って帰るぞ」と、柾が私に言うのに、私は「もちろんです」と頷いた。
 ただ、頷いてから、思った。
 何故、あの男は、私たちが買い物をしていたスーパーの前で、私たちを待っていたのか。

「……」

 つまり、最初から、私たちの居場所が割れていた。
 行動がばれていたなら、家の場所など、とうに割れているはずである。

「柾……あの男、諦めずにまた来ますよ……。たぶん、今度は直接家に来るのでは?」
「……そういう事か。……くっそ、すぐに引っ越しなんてできねえし……。逃げ場ねえじゃんか……」

 柾は、前髪をくしゃりとつかんだ。

「……柾、あの、先程の話なんですが……」
「……」

 言わずとも、柾には、分かったらしい。私の視線に、耐えきれなくなった柾は、「お前には絶対に言うなって言われていたんだけどな」と、諦めたかのように、口を開いた。

「あいつ……、夫が色々と危険な奴だと、知ってな……二年前、こっそりと俺のところへやってきたんだ。有名企業の看板の裏で、金と名声の為ならばと、世間に言えないようなことを色々とやっている奴だったらしい。
ハルの奴……そいつに、もしもお前の存在を知られたら、お前を奪って、分解して、体の技術を奪おうとするだろうと心配していてな……。
もし、自分に何かあったときに、お前には決して手が出せないよう、記憶のバックアップのデータも含めて、お前に関する何もかも、所有権を手放したんだよ……。自身のところから、完全にデータも何もかも、破棄してな……」

「……何かあったとき……? ……まさか…」
「……ああ、そのまさかは、多分今となっては、既に現実になっている。だけど、警察も結局手を出せずじまいなところを見るに、一般人の俺達にはどうすることもできない。ただ、ハルの冥福を祈ることぐらいしか……」

 柾は、小さく「くそっ」と悪態をついた。悔しそうに、遠く遥か前を睨んでいる。


「……」

 そんな危険な男のもとに、彼女は一人ぼっちでずっと、
 そんなことも知らず、私は、柾たちと毎日、呑気に楽しく暮らしていて――。


 私は、結局、彼女に守られるばっかりで。


「……私は、何にも、守ってあげられなかった……」

 ぽつりとこぼした言葉に、柾は片手をポンと私の頭の上に乗せた。

「……お前が気にすることじゃねえよ……。悪いのは、お前じゃない」
「だけど」
「何もかも悪いのは、ハルを放置した糞野郎と、ハルを殺した糞野郎だ。お前は何一つ悪くない」
「……」

 そうは思いたくても、
 自分のふがいなさが、身に染みて――


 私はただただ、自身の小さな両手を見つめて、
 私はただただ、無力な自身を、恨んだ。
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