天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
「早く笛を」
「笛なんか吹いている場合ではありません」
「説明は後だ。鬼に気づかれたくなければ吹け」
「え……?」

 意味が分かりません。
 でも早くしろと急かされて困惑しながらも笛を吹き始めます。
 緊張と困惑に指が強張りそうになりながらも、先ほど鳴らしていたのと同じ音色を響かせます。
 月明かりの下で笛に集中していると、ふと黒い影が差しました。
 笛を吹きながらそろりと顔を上げて、思わず恐怖で息を詰めてしまう。

「っ、!」

 鬼がそこにいたのです。
 しかも昨夜見たものより二回りも大きい巨体の鬼です。
 月すら(おお)い隠してしまうくらいの巨大な鬼。人間離れした骨格と、丸太のように太くてごつごつした手足。指の爪は刃物のように長く尖り、耳まで裂けた口からは鋭い牙が覗いていました。
 逃げなければと焦るのに、肩に置かれた黒緋の手にやんわり力が籠められました。大丈夫だから笛を続けろというのです。

「お前の笛の音が響いているうちは奴に俺たちは見えない」

 意味は分かりませんが今は小さく頷いて笛を続けます。
 庭園に現われた鬼はのそのそ歩き、周囲をきょろきょろ見回しています。

「……どこだ、白拍子。どこにいるっ。お前がいることは分かっているっ……」

 地を()うような鬼の声。
 夜の空気を震わせるそれに背筋に汗が伝いました。
 鬼は私を探しているのです。でも黒緋の言うとおり鬼に私の姿は見えていないようで、「白拍子、どこにいる」と私を探しながら苛立っているようでした。
 鬼は庭園を歩き回り、次に渡殿に上がってきます。近づく距離に恐怖と緊張が高まっていきます。

「そのまま続けろ」

 黒緋が私の耳元で囁きました。
 その声にちらりと振り返って、呼吸が詰まりそうになる。だって黒緋は呼吸が届くほど近くにいたのです。
 黒緋はこの場に似つかわしくない穏やかな笑みを浮かべていて、目が合うと「俺がいるだろう」と優しく宥められました。
 どうしてでしょうか、うまく呼吸ができない。なにも考えられなくなりそうなのです……。
 妙な気分になってしまって慌てて振り払いました。
 今は笛に集中する時なのです。

「どこだっ、どこにいる! 白拍子はどこだ!!」

 鬼が怒鳴りました。
 気が付けば目の前にまで近づいていて、周囲を見回している鬼の顔が私の至近距離まで寄せられました。
 鬼の生臭い息が頬にかかって身震いします。でも笛を止めません。ずっと吹き続けます。
 鬼はしばらく屋敷内を探し回っていましたが、やがて諦めたようで立ち去っていきました。
 気配が完全になくなると、黒緋にぽんっと肩を叩かれます。

「もう大丈夫だ。鬼は去ったぞ」
「去った……?」

 黒緋の言葉におそるおそる笛から唇を離します。
 でも同時に緊張の糸が切れて、ぺたんっとその場に座り込んでしまいました。
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