彼にゆずなスイーツを
 翌日。登校してきた柏木君は、既に席に着いていた私の傍を通り過ぎる瞬間。さり気なく身をかがめ耳元で囁やいた。

「めちゃくちゃ美味しかったよ」

 自分にだけ聞こえた感想は、吐息と共に耳元に温かな感情を呼ぶ。瞬間、ブワッと体中の血が顔にだけ集中してしまったみたいに火照ってしまった。そんな私の顔をのぞき込み、席に腰かけながら柏木君はあのニカリとした笑みを向けてくれた。その笑顔が眩しすぎて、思わずサッと俯いてしまう。

 どうしよう、心臓がドキドキしている。美味しいと囁いた声が耳から離れない。今まで彼の存在自体気にもしてこなかったというのに、胸の奥で鳴る音を止められない。私、彼のこと――――。

 火照る顔を必死で冷静にしようとしながら、窺うように視線を向けた先で彼がまだ私を見ているものだから、心臓が更に大きく鳴った。ドクンッと響いた衝撃で倒れるかと思ったほどだ。

 この日から、柏木君は隣の席から時折話しかけてくるようになった。そのほとんどが他愛もない内容だった。

「天気よすぎて、眠くなるな」とか。
「数学の授業が解り難い」とか。
「午後の体育がサッカーだから、張り切ってる」とか。

 私はその些細な会話が嬉しくて、気恥ずかしくて。彼の瞳が私を見ていることに、ドキドキせずにはいられなかった。

 休み時間中は、女子が傍に来ることも多いし。同じサッカー部同士で盛り上がっているから話すことはないけれど。授業の始まる前のほんのわずかな瞬間や、先生の目を盗んでかけられる言葉に心はふわふわと夢心地だった。


「恋だね~」

 部活へ向かう途中の廊下で、葉ちゃんがしみじみと言う。

「柚にも、とうとう春がきたか」

 腕を組んで、うんうん頷くさまが可笑しい。

「けどね、柏木君は人気者だし。私が彼に興味がないと思っているから、甘いもの好きなことも話してくれたと思うんだよね」

 葉ちゃんは、なるほどと頷く。

「クッキーが美味しかったって言ってくれた時、本当に嬉しかったけど。ああ、この気持ちも、彼が周りに甘い物を秘密にしているみたいに私も秘密にしていないとダメなんだろうなって。知られちゃったら、始業式の時に見たような、気難しい態度に変わっちゃうのかもなあって」

 口にしてしまうと、現実になる気がして心がざわざわとしてくる。今を失くすのが怖くなる。

「じゃあ、気持ちは伝えないの?」
「……うん。それに、私の作るお菓子が好きなのと、私のことをどう思っているかは別だと思うから……」

 悲しくなるけれど、きっとそれが現実だ。息を吐き、切ない感情を吐きだした。


 今日作るのは、マフィンだ。材料を測り、順番に攪拌していく。トッピングは各々好きなものを用意していた。私は、チョコチップにクラッシュアーモンド。硬めに練ってきたカスタードクリーム。カスタードクリームは、登校した時に林先生に預け、家庭科準備室の冷蔵庫に保管して貰っていた。

「さすが、柚。カスタードクリームを作ってくるとは、やるねぇ」

 感心したように言いながら、少し分けてくれる? と猫なで声を上げる葉ちゃんに笑って頷いた。

 一つ目は、マフィンカップに三分の一まで生地を流し込んでから、カスタードクリームを入れて更に生地を流し込む。二つ目は、チョコチップを上に散りばめた。三つ目は、クラッシュアーモンドを生地に混ぜ、上に粉砂糖をふるった。

 オーブンから香る甘い匂いに、葉ちゃんは鼻をクンクンと鳴らしている。

「お菓子の焼ける匂いって、ホントいいよねぇ。幸せな気持ちになるよ」

 葉ちゃんはうっとりと目を閉じ、甘い香りを胸いっぱいに吸い込んでいる。廊下には、匂いに釣られた生徒たちが集まっていた。

「柚ちゃーん」

 拓海君が大きく手を振ってくる。今日も彼は通常運転だ。ねだる姿が様になっている。

「また来たか、ハイエナめ」

 そしてまた、塩対応する葉ちゃんも同じく様になっている。

 出来上がったマフィンを持って家庭科室をあとにすると、終わるのを待っていた拓海君が擦り寄ってきた。

「今日こそ、柚ちゃんの手作りが食いたいっ」

 余りに人懐っこくねだるので一つくらいは。そう思ったところで、廊下の窓から校舎内に戻ってくるサッカー部の姿が目に入った。柏木君の姿もある。見続けていたつもりはなかったけれど、三階の窓ガラスを見上げるように彼はこちらに笑いかけてきた。……ような気がした。

 三階にいる私たちの姿など、目視できるはずないか。都合のいい自分の考えに苦笑いがもれる。

「柚ちゃん?」

 グラウンドを見ていた私を拓海君が呼ぶ。柏木君に気を取られていたことにハッとして動揺しながら拓海君を見た。

「柚ちゃんのマフィン食べたいよぉ」

 隣を歩く拓海君がニコリと笑みを近づけてくる。

「あんたねぇ。毎回毎回、性懲りもなく。柚に近づかなくていいから、さっさと行きなさいよ」

 葉ちゃんが文句を言って拓海君を促し、二歩ほど先を行く。葉ちゃんの言うことなどスルーした拓海君は、二階へ降りる渡り廊下の辺りで私の目の前に回ってきておねだりを始めた。

「ちょーだい」

 子供みたいにせがむと、さっきまでニコニコとしていた顔を引っ込め、いつにもない真面目な表情をした。

「柚ちゃんのが食べたい」

 言うと、私の手を取ったあと足を止めた。いつも冗談を言ってばかりの拓海君が、見たことのない真面目な瞳で見てくるものだから言葉をなくす。彼は、顔を少し近づけ見つめてくる。こんな状況を考えてもいなくて、何をどうしていいのか解らなくなり固まってしまった。

 拓海君の様子がいつもと違うことに気がついた葉ちゃんが、二歩ほど先で立ち止まりくるりと振り向くのと。一階から勢いよく上がってきた柏木君の呟きが重なった。

「遠野……さん」

 私の姿しか確認できていなかったのか、柏木君のかけた初めの声はトーンが高かった。けれど、拓海君と。拓海君に握られた私の手に視線をはしらせたあとの「さん」は消え入りそうだった。

 脳内では咄嗟に「違うっ」という言葉が飛び出していたのに、それは口から出ることはなく。代わりのように、私は乱暴に拓海君の手を振りほどいてしまった。

 目の前で唖然としたあとに切ない顔をする拓海君。拓海君の行動に眉根を寄せ、止めに入ろうとしていた葉ちゃんの驚いた顔。そして、柏木君の悲しそうに俯いた顔。同時に起こる気まずい瞬間。空気が固まったようになった時、柏木君が足を動かし、私の傍を無言で通り過ぎる。待って、と呼び止めることができず、柏木君の背中を視線だけが追う。

 ズキリとした。心臓が痛んだ。痛くて痛くて声を出したいのに、一つも言葉にならなくて。そんな私を拓海君は、やっぱり切なそうに見ていた。

「なっ、馴れ馴れしく触るなって言ったでしょ」

 ハッとしたように動き出した葉ちゃんが、この場の雰囲気を取り繕うように拓海君の袖口をグイグイと引き私から遠ざけ先を行く。

 取り残されたように、私はその場所から動き出すことができなかった。
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