風が吹いたら
わたしはまだ幼くて、他人との距離感がわかっていなかったのでしょう。
間近に見つめるわたしから、あなたは少し身体を引いて、濡れた口元を袖で拭いました。

「いただいておいてなんですが、お嬢さまは僕なんかに構っていて大丈夫なのですか?」

これは普段なら女中のする仕事なのです。
祖母が健在でしたら、きつく叱られたことでしょう。
子爵家の跡取りとして、兄には家庭教師が付けられ、姉たちも厳しく育てられました。

ところが、昭和二年に十五銀行が休業して、我が家もそのあおりを受けました。
加えて、父が友人の保証人となってその債務をかぶったのです。
桶の継ぎ目から少しずつお水が漏れ出るように、我が家は力を失っておりました。

そのため、末っ子のわたしには専任の御付きを付ける余裕もなく、手の空いた女中が交代で御付きの仕事をしていましたので、わたしは目を離される時間が多かったのです。

「みんなお祭祀で忙しいので」

「ああ、なるほど」

もし、我が家が以前のような経済状態であったなら、わたしには始終厳しい御付きがついて、めったに奥から出してもらうこともできず、あなたと口をきくこともなかったと思います。

「ところで、伯母さまはわたしのお姉さまに見える?」

無責任なあなたは、伯母に「お嬢さまとご姉妹に見えます」と言ったことを、すぐには思い出せないようでした。
何の話なのか少し考えて、それから特別な秘密を打ち明けるように人差し指を口に当てました。
珈琲ゼリー色の目が細められます。

「お嬢さま。人というものは、心地よい嘘を好むものなのですよ」

わたしは口を尖らせて反発しました。

「嘘はいけない、といつも叱られるわ」

「それは嘘の扱い方が下手なのです。大人になったらわかりますよ」

あなただってまだ大人とは言えないくせに、わたしを子ども扱いしましたよね。
わたしはあなたのことがすっかりきらいになりました。

食堂に移動したあとも、わたしの苛立ちは収まっていませんでした。

何も食べる気持ちになれず、窓から外を眺めていたら、帰っていくあなたの姿が見えました。
だぼだぼとした背広の内側で、背中はしなやかに伸びて、重い機材を運んでいきます。

ふと、あなたはふり返り、わたしを見つけて笑いました。
両手がふさがっているので、三脚を振って見せます。
その姿がこぶしの枝に隠れても、わたしは窓辺から離れることができませんでした。


長い人生には数多(あまた)ある夏の日の、ほんの一日のことです。
あなたは忘れてしまったでしょうね。


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